ねこのはなし
昔、猫がいました。
猫は誰の飼い猫でもありませんでした。
猫は生まれつき、自由という贈り物を与えられていたのです。
その代わり、猫は誰かとずっと一緒にいることができませんでした。
猫は自由の代わりに、孤独を支払う決まりになっていました。
誰が決めたのかはわかりませんけれども、とにかくそういう決まりだったのです。
猫は、それを寂しいとは思いませんでした。
生まれてから、ずっと孤独だったので、寂しいということが、分からなかったのです。
猫は、寂しいということを知らないままで、自由に生きていました。
いつ眠るのも、どこに住むのも、いつ食べるのも、どこを目指すのも、猫の自由でした。
そうして、孤独なままで、世界を歩き続けました。
いいことばかりではありませんでした。
腹を死ぬほど空かしたこともありましたし、屋根のない場所で眠らなければならないこともありました。
でも、それは仕方のない事でした。
孤独でいるというのは、誰にも守ってもらえないということですから。
それでも猫は、満足していました。
自由であるのは苦しいことかもしれませんが、鎖につながれるよりはましです。
すくなくとも猫はそう思っていましたし、誰かに飼われるつもりにはなれませんでした。
それに、誰かに守ってもらっても死んでしまうものはたくさんいます。
誰かに守ってもらったのなら、誰かを守らなければいけないときもあります。
それを思えば、孤独でいる、というのはずいぶんと身軽なことでした。
少なくとも、自分の命の心配だけをしていればいいのですし、とる責任も、自分の分だけですから。
ですから、猫は自分が死にそうになっているときにも、別段後悔はなかったのでした。
腹をすかしているところを、カラスに襲われて、死にかけたって、それは自分の責任です。
自由に生きた分の責任を取っただけなのですから、それは何ら理不尽なことではありません。
少なくとも、猫にとってはそうでした。
でも、なぜでしょうか。
猫が死にそうになっているのをみつけて、拾い上げた生き物がいました。
それは、人間の少年でした。
猫でいえば、生まれてほんの少ししかたっていないような、幼い子供です。
少年は、擦り切れた青いパーカーに、ぶかぶかの空色のジーパンをきていて、まるで曇りかけの空が躓いて、落ちてきたみたいな姿でした。
猫は、この空色の人間は自分を食べるつもりだろうか、と考えました。
猫がそう思ってしまうのもしょうがないぐらい、少年は、猫に負けず劣らず、やせっぽっちだったのです。
でも、少年は猫を食べたりはしませんでした。
それどころか、食べられたくない、と暴れる猫にいやなかおもせず、猫のけがのために、古い服の切れ端から包帯を作って手当てしてくれて、ご飯を食べさせてくれました。
猫は、そのうち暴れるのをあきらめて、どうしてこんなことをするのだろうかと考えるようになりました。
そうして、こいつはきっと自分をたっぷり太らせてから食べるつもりなんだろうな、と思いました。
それぐらいしか、猫には自分によくしてくれる理由が思いつかなかったのでした。
でも少年は、猫の怪我が治ってきて、毛並みがつやつやとしても、ちっとも食べようとはしませんでした。
ただ、寒くなってくると、猫を一緒の毛布に入れて、寄り添いあって眠ってくれるだけでした。
猫は、こいつはもしかしたら、おれを食べるのを一旦やめて、冬が終わるまでの間は、自分を湯たんぽにするつもりなのだろうか、と思いました。
それぐらいしか、猫には少年が自分を大事にしてくれる理由がわかりませんでした。
春が来て、温かくなっても、ふっくらしても、少年は猫に何もしようとはしませんでした。ただ、食べ物を与えて、笑いかけてくれました。
猫には、どうしてこんな風にしてもらえるのかがちっともわかりませんでした。ちっともわからなくて、頭が痛くなってしまいました。
だから、さっさと好きなだけ世界を歩き回る日々に戻ろうと思いました。
そうして、十分に暖かくなって、月が明るくなるまでをじっくりと待って、出ていく日を決めました。
そして、とても温かい、春の夜に、自分を抱きしめてくれる少年の腕からぬけだして、広い世の中に、もう一度出ていこうとしました。
でも、なぜでしょうか。
ぬけ出そうとしても、動くことはできませんでした。
自分を抱きかかえている少年の腕の中がとてもあったかくて、出ていこうと思えなかったのです。
すうすう眠る少年が、朝起きて、自分がいないときに悲しそうな顔をするのを思い浮かべると、どうしても、どうしてもできなかったのです。
少年には、猫と同じで、守ってくれる生き物がいません。
たぶん、猫とおんなじで、自由のために孤独を支払っているのです。
そして、いつも腹をすかしていて、猫に食べさせる分があったら、自分が食べたほうがいいぐらいのやせっぽっちです。
なのに、少年はかならず、猫が食べられるものは、絶対に猫と半分こにするのです。
そうして、頭を撫でて、「大好きだよ」といって笑いかけてくれるのです。
そうすると猫はなんだか心がふわふわして、春と夏がいっぺんに来たみたいになるのです。
どんな陽だまりよりも暖かな、その温かさからはなれられなくて、猫は、腕の中から抜け出すことが、できませんでした。
どうしても、できなかったのです。
昔は、どこにでも行けるぐらい、自由だったのに。
そうして、腕の中を抜け出すのをあきらめた猫は、一人と一匹で過ごすうちに、少年のためになにかしてやりたくなりました。
そんな気持ちになったのは、猫にとっては初めてのことでした。
でも猫が人間のためにできることは、とても少ないのでした。
だから裕福そうな人間のまわりにすりよって、食べ物の余りを貰ってきたり、好きでもない、川に流れる魚を、大嫌いな水に入って、とってきたりしました。
そうすると、少年は必ず、猫と食べ物を半分こして、頭を撫でて、一緒に寄り添いあって眠ってくれるのでした。
それが、猫にはとてもうれしいのでした。ずっとこうしていたいと思うほど、嬉しいのでした。
そうして、それから、長いこと時が過ぎても、猫はもう、少年からはなれようとはしませんでした。
猫は、少年に飼われることに、したのでした。
だからもう、猫は自由でも、孤独でもありません。
寂しいということがわからないぐらいさびしくなることも、ありません。
猫は今も、少年のそばにいます。
ずっとずっと、そばにいます。
――きっと死ぬまで、そばにいるでしょう。