プレシオスの鎖
ふと、目を覚ました。夢を見ていた、と思う。大切なものを失くす夢を。
そこで、ソファの上で眠っていたことに気が付いて、立ち上がる。
そのまま、眠るために寝室に向かえば、彼女が窓のそばで本を読んでいた。
「なにをよんでいるの?」
「星の王子さま。――彼、貴方みたい。」
小さな硝子のショーケースの隣に腰かけた彼女は、そういって笑って、真っ青な表紙の本を閉じた。透き通った白い膚を包む、真っ白なワンピースが窓から差し込む西日を受けて、やわらかく、光を抱き込んでいる。
彼女の黒髪が柔らかく風になびいた。水中に咲く、美しい黒い花のように。あるいは北の海にすむ人魚のように。
「サン・テグジュベリ?」
「そう。人間であるのは、責任を持つことといった人。無関係な悲惨に責任を持ち、恥じ入るのが、人間だっていった飛行機乗り。」
「僕とはまるで違うな。」
「いいえ、そっくりよ。だってあなた、優しくて、真面目だから。」
そういって、彼女はひっそりはにかんだ。真っ白な肌に赤みがさす。彼女の透き通った手足とは裏腹に、健康的な赤。
水の中を泳ぐように、彼女がショーケースのそばで、両足を空中に躍らせれば、彼女の足に繋がれた、真っ黒な鉄のかせと鎖が、しゃらしゃらと音を立てて、足の動きを追いかける。
銀色と黒色の魚が水中で追いかけっこでもしてるみたいだった。
「真面目な人は、こんなことをしないよ。」
「いいえ。真面目で優しいわ。ほら、みて。」
彼女を拘束する鎖に、目を落として、苦笑いをする。
そうすると、彼女は笑って首を振った。彼女の細くて華奢な指が、ショーケースのガラスをなぞる。きゅ、とガラスが音を立てた。悲鳴のようだった。
「とてもきれいに飾ってくれて、毎日手入れをしてくれるから、こんなに綺麗よ。生きてる時より、ずっと。」
そういって、はにかんだ彼女は、穏やかな日差しの下で、まるでホログラムか、回転灯の影絵みたいに透けている。
彼女が腰かけるショーケースの中に置かれた、真っ白なワンピースと、虹の色を帯びた骨を見ながら、僕はそれでも、と、静かに首を振っていった。
「いきてるときのほうが、ずっときれいだった。きれいだった。少なくとも、僕にとっては」
「そういってくれるの、きっとあなただけよ。」
彼女は明るい夏の日差しみたいなもの悲しさで笑った。
透き通りすぎて悲しくなるくらいの青空のような姿。
生きてはいない人間の、さみしい笑顔。
「きっとみんな、君のこと、生きてるときのほうがきれいだって思ったよ。」
「そうだといいわね。そうだったら、きっと素敵。」
夢を見るような真っ黒な瞳が、僅かに熱を帯びてうるみ、僕を見つめる。火葬場の碧い炎のようだった。
僕はこんな目をする彼女には決して逆らえない。彼女が生きているときから、ずっと。
彼女の足首に絡げられた真黒な鎖がしゃらしゃらと揺れる。銀の鈴のような音色。僕が彼女に抱いた哀愁の鎖。僕の罪。彼女を閉じ込める鎖。
「僕、君に生きていてほしかった。……生きていて、ほしかったんだよ」
彼女は静かに笑って、悲しげに眉を下げて、そっと僕を抱きしめる。けれど、彼女の体は僕を透過してしまった。
やわらかい腕も、暖かなぬくもりも、もうどこにもない。ここにあるのは、彼女の骨と、鎖につながれた彼女だけだった。
「けど、こんな風に、こんな風に縛り付けたいわけでも、なかったんだ」
「……ごめんね。」
静かなキスが、額の上に落とされた。けれど、僕には風がなぜたほどの感触もなかった。
嗚咽が満ちる部屋の中で、小さな骨が、ガラスのショーケースの中で、西日を映して光っている。
螺鈿のように、星のように、罪のように。
僕の愛する、愛した、彼女の骨が、光っている。
――ずっとずっと、光っている。
許されはしないと、言うように。
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