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キャサリン・スーザン・ジェノヴィーズの死 ブレグマン 「ヒューマンカインド」から

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1960年代の人間性についての痛ましい真実を明らかにする別の物語。今回は私たちがやらないことについてだ。それは、第二次世界大戦で何百万人ものユダヤ人が逮捕され、国外追放され、殺害された後、ヨーロッパ中の非常に多くのドイツ人、オランダ人、フランス人、オーストリア人などが主張することを反映した物語でもある。Wir haben es nicht gewußt. ノーアイデア。
1964年3月13日、午前3時19分、ニューヨークの地下鉄オースティンストリート駅の近くに住む28才のキャサリン・スーザン・ジェノヴィーズは、赤いフィアットから降りて100フィートもないアパートに向かおうとした時に襲われた。
「オーマイガッ!刺された!助けて!」
叫び声が夜を貫き、近所を目覚めさせた。いくつかのアパートで、灯りがつく。窓が上がり、声がする。「放っておけ」と叫ぶ人もいる。
暴漢が戻ってきて、もう一度彼女を刺した。角を曲がったところでつまずいて、彼女は叫ぶ。「死にそう!死ぬ!」
誰も外に出ない。まるでリアリティ番組を見ているかのように、何十人もの隣人が窓から覗き込んでいる。暴漢が3度目に戻ったとき、アパートの建物のすぐ内側の階段の吹き抜けの下で倒れているを見つけた。二階で同居するメアリー・アンは気づかずに寝ている。
警察署で最初の電話が鳴るのは午前3時50分。発信者は、何をすべきか長い時間かかった隣人だ。警官は2分以内に現場に到着したが、手遅れだ。「私は関わりたくなかった」と発信者は警察に認めている。
この「私は関わりたくなかった」は、世界中で反響した。やがてキティの殺害は歴史の本になった。暴漢や犠牲者のではなく、傍観者の歴史。
3月27日。「殺人を見た37人は警察を呼ばなかった」とニューヨークタイムズが一面に書いた。「30分以上の間、クイーンズの38人の立派な法を遵守する市民は、キューガーデンで暴漢が3回女性をストークして刺すのを見ていた」。 キティはまだ生きていたかもしれないと書いた。 ある探偵が言った「電話していたらそうだろう」。世界中の大きなニュースになった。ソビエトの新聞イズベスチャは「資本主義ジャングルの道徳」と書いた。
メディアがキューガーデンに群がったが、こんなに素晴らしく、きちんとした、立派な近所の住民が、どうしてこんなに完全で恐ろしい無関心を示すことができるのか、信じられなかった。
テレビが影響して人を鈍くする、いや、フェミニズムが男を弱くした、大都市の匿名性の象徴、そして、ホロコースト後のドイツ人を彷彿とさせる。彼らも言った「どうしたらいいか分からなかった」。
しかし、最も広く受け入れられたのは、ニューヨークタイムズのメトロポリタン編集者であり、当時の主要なジャーナリストのエイブ・ローゼンタールの分析だった。「オースティンストリートの家やアパートで起こったことは、人間の状態がひどいという現実の現れだ」。結局のところ、私たちは一人だ。
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この運命的な13日の金曜日は演劇と歌の主題になった。「となりのサインフェルド」の全エピソード、Girls and Law and Orderがそれだ。1994年のキューガーデンでの演説で、ビル・クリントン大統領はキティの殺害の「身も凍るようなメッセージ」を思い出させ、国防副長官のポール・ウォルフォウィッツはそれを2003年のイラク侵攻の正当化として利用した。
しかし、キティの死を取り巻く状況の研究を読み始めたとき、私は再びまったく別の話の中にいることに気づいた。
ビブ・ラタネとジョン・ダーリーは当時若い心理学者だった。彼らは、緊急時に傍観者が何をするかを研究していて、奇妙なことに気づいた。キティが殺害されて間もなく、彼らは実験をした。対象は無防備な大学生で、密室に一人で座って、インターホンで仲間の何人かと大学生活についてチャットするように依頼した。
そこで、録音のテープを再生した「私は本当に、はぁ、たすけがあったら、うううう、助けて、死んじゃう」
何が起こったか?被験者は一人でその声を聞いたと思ったとき、廊下に駆け込んだ。すべて例外なく、助けるために外に出た。しかし、他に5人の学生が近くの部屋にいると信じさせられると、62パーセントだけが行動を起こした。これが傍観者効果。
ラタネとダーリーの調査結果は、社会心理学への最も重要な貢献の1つだ。それから20年で、緊急時の傍観者の行動について1,000を超える記事や本が出版された。それは、キューガーデンでの38人の目撃者の不作為も説明している。キティ・ジェノヴィーズは、悲鳴で多くの人を起こしたにもかかわらず死んだのではなく、起こしたからこそ死んだ。ある建物の居住者が後に記者に語った。彼女の夫が警察に電話をかけに行ったとき、彼女は引き止めた「きっともう30回も電話があるはずといいました」。キティがひと気のない路地で襲われ、目撃者が一人だけなら、助かったかもしれない。
この話は心理学の教科書のトップ10に入り、ずっとジャーナリストや専門家が話題にしているが、それは大都市生活の危険な匿名性についてのたとえ話に他ならない。
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2016年2月9日、午後4時15分頃、サンネはアムステルダムのスローテルカーデ地区の運河沿いの通りに白いアルファロメオを駐車する。彼女は助手席にまわって、幼児を車の座席から降ろそうとすると、突然、車がまだ動いていることに気づいた。サンネはなんとかハンドルに戻ったが、ブレーキをかけるには遅すぎる。車は運河に落ちて沈み始める。間違いなく、キューガーデンよりもっと多くの人びとがサンネの悲鳴を聞いた。同じように、現場を見下ろすアパートがある。そして、ここもまた、素敵なアッパーミドルクラスの地区だ。
しかし、その後、予期しないことが起こる。「まるで一瞬、神経反射のようだった」と、角の不動産会社のオーナー、ルーベン・アブラハムズは後に地元のテレビ記者に語った。彼はオフィスの道具箱からハンマーを取り出して、氷の運河に向かって全力疾走する。1月のある寒い日に私と会って、教えてくれた「それは奇妙な偶然で、すべてが一瞬でひとつになった」。
ルーベンが運河に飛び込んだとき、同じ傍観者のリエンク・ケンティはすでに車に向かって泳いでいて、ライニエ・ボッシュも水中にいる。最後の瞬間、ひとりの女性がレイニエルにレンガを手渡した。すぐに必要になる。4人目のヴィーツ・モルは車から緊急ハンマーをつかんで飛び込む。
「私たちは窓を叩き始めました」とルーベンは語る。レイニエは窓を壊そうとするが、うまくいかない。その間、車は前から傾いて沈む。レイニエは、レンガで後ろの窓を激しくたたいてとうとう割れる。「母親は後ろの窓から子供を私に渡しました」とルーベンは続ける。レイニエは子供を安全にして泳ぐ。それから、ルーベン、リエンク、ウィッツェは彼女が脱出するのを手伝う。2秒も経たないうちに、車は運河の真っ黒な海に消えていった。
その時までに、傍観者すべてが水辺に集まってきた。彼らは母と子と4人の男性を水から上げてタオルで包むのを手伝う。
救助活動全体は2分足らずで終わった。その間ずっと、4人の男性(お互いにまったく知らない同士)は言葉を交わさなかった。誰かが一瞬でも躊躇していたら、それは手遅れだっただろう。4人が飛び込んでいなかったら、救助は失敗した可能性がある。そして、無名の傍観者が最後の瞬間にレイニエにレンガを渡さなかったなら、後ろの窓を壊して母と子を連れ出すことができなかっただろう。
つまり、サンネと幼児は、多くの傍観者にもかかわらずではなく、彼らのお陰で生き残った。
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2011年に発表されたメタアナリシスは、緊急時に傍観者が何をするかについて新たな光を当てた。メタアナリシスは、研究に関する研究、つまり、他の多くの研究を分析する。このメタアナリシスは、ラタネとダーリーによる最初の実験を含む、過去50年間の傍観者効果に関する105の研究をレビューした。
この研究から2つの洞察が得られた。1つは、傍観者効果は存在する。他の誰かに責任を負わせる方が理にかなっているので、緊急事態に介入する必要がないと考えることがある。時々、私たちは間違や非難を恐れて介入しない。そして、他の誰も行動を起こしていないから、自分も何も悪くないと思うことがある。そして2番目の洞察は、緊急事態が生命を脅かすもので、傍観者が互いにコンタクトできる場合、逆の傍観者効果がある「追加の傍観者が、むしろより多くの助けにつながる」。
ルーベンの救助活動についてインタビューした数か月後、アムステルダムのカフェでデンマークの心理学者マリー・リンデガードに会った。マリーはコペンハーゲン、ケープタウン、ロンドン、アムステルダムからの1000以上のビデオを含むデータベースを持っている。それは乱闘、レイプ、殺人未遂を記録していて、彼女の発見は社会科学に小さな革命をもたらした。「ほら、明日、この記事を主要な心理学ジャーナルに投稿します」仮題は「傍観者効果についてあなたが知っていると思うほとんどすべてが誤りだ」。「見てください。ここでは、90%のケースで、人々が互いに助け合っていることがわかります」。
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キティ・ジェノヴィーズの目撃者の無関心に最初に疑問を呈した一人は、キューガーデンの新参者であるジョセフ・デメイだった。このアマチュアの歴史家はキティの死から10年後にそこに引っ越し、近所を悪名高いものにした殺人に興味をそそられた。彼はアーカイブを調べ始め、色あせた写真や古い新聞、警察の報告書を見つけた。彼がすべてをまとめ始めたとき、少しずつ、実際に起こったことが浮かび上がった。
恐ろしい悲鳴がオースティン・ストリートの沈黙を破るのは午前3時19分。しかし、外は寒く、ほとんどの住人は窓を閉めていて、通りは照明が不十分、外を見るほとんどの人は奇妙なことに気づかない。何人かは女性のシルエットに気づき、彼女が酔っているに違いないと思う。通りのすぐ上にバーがあるので、それは珍しいことではない。それにもかかわらず、少なくとも2人の居住者が電話を取り、警察に電話する。 一人は後に力を合わせるマイケル・ホフマンの父、もう一人は近くのアパートに住むハッティ・グルント。
「警察は言った、 「彼女は何年も繰り返している」、もう電話があった」。
でも警察は来ない。これは夫婦喧嘩だと思った可能性がある。現在は引退したホフマンは、それが彼らが現場に到着するのがとても遅かった理由だと考えている。 夫が妻を殴ることにあまり注意を払わなかった時代、配偶者によるレイプが刑事犯罪でなかった時代だ。
でも、38人の目撃者は?
歌や演劇、大ヒット作やベストセラーに至るまで、この悪名高い人数は、警察が事件で質問した人びとのリストの全数から来ている。そして、そのリストの大多数は目撃者ではなかった。せいぜい何かを聞いただけで、まったく目を覚まさめなかった人もいた。
明らかな2つ例外があった。一人は建物の隣人であるジョセフ・フィンク、ユダヤ人を憎むことで知られている変わり者の孤独な男だった(地元の子供たちは彼を「アドルフ」と呼んだ)。事件が起こったとき、彼は目を覚ましていて、キティへの最初の攻撃を見たが、何もしなかった。
キティを悲運に捨てたもう一人は、彼女とメアリー・アンと友達だった隣人のカール・ロスだった。ロスは階段の吹き抜けで2回目の暴行を目撃したが(実際には暴行は3回ではなく2回だった)、パニックになって立ち去った。ロスは、警察に「巻き込まれたくない」と言った男でもあった。彼はその夜酔っていて、そして自分が同性愛者であることが明らかになるのではないかと心配していた。当時、同性愛は違法であり、ロスは、同性愛を危険な病気として非難したニューヨークタイムズのような新聞と警察の両方を恐れていた。1964年、ゲイの男性はまだ警察に日常的に容赦ない扱いをうけ、新聞は同性愛を疫病として描いた。(特に、キティを有名にした編集者であるエイブ・ローゼンタールは有名なホモ嫌いで、その本をだしたばかりだった)
カール・ロスが別の友人に電話をかけると、その友人はすぐに警官に電話するように促した。しかし、ロスはそれをやらず、屋根づたいに隣の家に行って女性を起こした。キティが階段の下で血を流して倒れていると聞いたソフィア・ファラーは、一瞬も躊躇しなかった。夫がズボンをはきながら待ってと言うのを聞かず、アパートを飛び出した。ソフィアは暴漢に突っ込む可能性があって、それをわかっていたが、止めなかった。 「私は助けに走った。それは自然なことのようでした」。階段の吹き抜けへの扉を開けたとき、暴漢はいなかった。ソフィアは腕をキティのそばに置き、キティは少しリラックスして友人に寄りかかった。これがキャサリン・スーザン・ジェノヴィーズが実際に死んだ様子:隣人の抱擁に包まれた。 兄弟のビルが何年も後にこの話を聞いたときに言った「キティが友人の腕の中で死んだことを知っていたら、家族は違っただろう」。
ソフィアはなぜ忘れられたのか?なぜ彼女はどの紙面にも書かれなかったのか?
真実はかなりがっかりする。彼女の息子によると、「当時、母は新聞社の女性に話しかけた」が、翌日掲載された記事は、ソフィアは関与したくなかったと伝えた。ソフィアはそれを読んで激怒し、そのジャーナリストと二度と話さないと誓った。
ソフィアだけではなかった。実際、数十人のキューガーデンの住民は、彼らの言葉がマスコミによってねじ曲げられ続けていると不満を言い、多くは結局その地域から出て行った。その間、ジャーナリストは立ち寄り続けた。キティの死の1周年の2日前の1965年3月11日、ある記者は、キューガーデンに行って真夜中に血まみれの殺人を装って叫び声をあげるのは良い冗談だと考え、カメラマンはカメラを持って立っていた。
状況はすべて狂っているようだ。ニューヨーク市でアクティビズムが芽吹き、マーティン・ルーサー・キングがノーベル平和賞を受賞し、何百万人ものアメリカ人が街頭を行進し始め、クイーンズのコミュニティ組織が200以上にのぼったのと同じ年、マスコミはそれを「無関心の流行」として打ちのめした。
ダニー・ミーナンという名前のラジオ記者は、無関心な傍観者の話に懐疑的だった。彼が事実を調べると、ほとんどの目撃者は、酔っ払った女だと思っていたことを発見した。ミーナンがニューヨークタイムズの記者になぜその情報を記事にしなかったのかと尋ねたとき、彼の答えは「それは物語を台無しにしていただろう」だった。
なぜミーナンはこれを自分に留めたのか?保身。当時、世界で最も強力な新聞と矛盾することが頭に浮かぶジャーナリストは一人もいなかった。仕事を続けたいのであれば。
数年後、別の記者が批判的な原稿をだした時、ニューヨークタイムズのエイブ・ローゼンタールから激しい電話を受けた。「この話がアメリカの状況を象徴するようになったことに気づいていないのか?」編集者は切り捨てた。「それは社会学のコース、本、記事のテーマになっているのですか?」
元のストーリーがほとんど持ちこたえられないのは衝撃的だ。悲運の夜、堕ちたのは一般のニューヨーカーではなく、当局だった。キティは一人で死んだのではなく、友人の腕の中で死んだ。そして、結局のところ、傍観者の存在は、科学が長い間主張してきたものとは正反対の効果をもたらす。私たちは、大都会、地下鉄、混雑した通りで孤独ではない。お互いをもっている。
そして、キティの話はそれだけではない。最後に、奇妙なひねりが1つあった。
キティの死から5日後、クイーンズに住むラウル・クリアリーは通りで見知らぬ人に気づいた。彼はテレビを持って、昼間に近所の家から出てきた。ラウルが彼を止めたとき、その男は引っ越し業者だと主張した。
しかし、ラウルは疑わしいと思い、隣人のジャック・ブラウンに電話をかけて「バニスターは引っ越すの?」と尋ねた。 「絶対にない」とブラウンは答えた。
躊躇しなかった。ジャックが男の車を動かないようにしている間、ラウルは警察に電話をかけた。警察は泥棒が再び現れた瞬間に到着した。ほんの数時間後、男は自白した。侵入だけでなく、キューガーデンでの若い女性の殺害も。
そう、キティの殺人犯は2人の傍観者の介入のおかげで逮捕された。それを伝えた記事は1つもない。
これがキティ・ジェノヴィーズの実話。心理学の1年生だけでなく、ジャーナリスト志望者にとっても必読の物語だ。それは私たちに3つのことを教えてくれる。 1つは、人間の本性に対する私たちの見方がいかに的外れかということ。 2つ目は、ジャーナリストがいかにこうしたボタンを巧みに押してセンセーショナルなストーリーを売るかだ。そして、最後に大事なことだが、私たちがお互いに信頼できるのは、緊急時の対応がどれほど的確かということだ。
アムステルダムの運河をみながら、ルーベン・アブラハムに聞いた。運河に浸かってヒーローだと感じたか?彼は肩をすくめた。「いや、人生ではお互いに気を配らないとね」。

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