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「ありがとう」のない世界・・・打算の拒否:真に人間的な社会とは?

「ありがとう」という言葉がとても大事だと思っている人は少なくない。特に日本人には多いと思う。それで人間関係がうまく行って、人生が円滑になる、この言葉を連発すれば、自分の運気も開ける!くらいに思っている人はたくさんいるだろう。そして、恩を決して忘れずにしっかり恩返しする人こそ、立派な人だ・・・。

でも、私は、この言葉が実はかなり嫌いだ。私が滅多にこの言葉を使わないことに、家族からも苦情がでることもある。でも、嫌いな理由がうまく説明できない・・・。

少し前、グレーバーの『負債論』の書評の中に、「イヌイットには、ありがとうという言葉がない」というコメントを見つけた。どういうことだろうとネットを調べても出てこない。あの本はいかんせん、日本の翻訳本にありがちにクソ高いし、ましてやkindle版がない、どでかい本だ。グレーバーは最大限リスペクトしてるけど、彼の話は長いし、私は、もう新しい通貨システム提案してんだから、いまさら負債のルーツ調べてもなぁ・・・。
でも・・・、しょうがないということで、なんと愚かにも旅立つ前に買って、旅に携えてきてしまった(笑)。以後、移動のたびに大きなスペースが邪魔すぎる・・・。

ふと、時間と心の余裕ができたので、その5センチ以上ある分厚い本、とりあえず読み進めたら・・・

あった。これが、当該全文だ。

ニーチェは返済の失敗ゆえにたがいの肉体を切り刻む野蛮な狩人を空想したが、その空想を真に受けたがっている人間への最良の対応は、実際の狩猟採集民の言葉を贈ることだ。デンマークの探検家であり人類学者かつジャーナリスト、ピーター・フロイヘンの『エスキモーの本』によって有名になったグリーンランドのイヌイットがそれである。ある日、セイウチ猟がうまくいかず腹を空かせて帰ってきたとき、猟に成功した狩人の一人が数百ポンドの肉をもって来てくれたことについて、フロイヘンは語っている。彼はいくども礼を述べたのだが、その男は憤然として抗議した。
その狩人はいった。「この国ではわれわれは人間である」。「そして人間だから、われわれは助け合うのだ。それに対して礼を言われるのは好まない。今日わたしがうるものを、明日はあなたがうるかもしれない。この地でわれわれがよくいうのは、贈与は奴隷をつくり、鞭が犬をつくる、ということだ」。
この最後の一節は、人類学の小さな古典ともいわれているが、これと似た貸しと借りの計算の拒絶は平等主義的な狩猟社会についての人類学文献全般にみいだされる。狩猟民は経済的計算の能力ゆえにみずからを人間であると考えるかわりに、そのような打算の拒絶、だれがなにをだれに与えたか計算したり記憶することの拒絶に真に人間であることの印があると主張した。
(略)
いうまでもなくわたしたちは計算する[打算的]性向をもっている。わたしたちはあらゆる性向を有している。
(略)
本当の問題は、わたしたちが人間性の基礎をどちらにおくか、したがって文明の土台をどちらにおくかである。

政治をやってる頃、私は、はっきりと「打算を拒否」した出来事があった。

ここでこの議員の謝罪を受け入れたら、次は当選できるんだろうな。カネの苦労もなくなるだろう・・・党の幹部まで仲裁に入ってくれてんだし・・・。別に、許せないとかいう了見の狭い感情はないし、根が悪い奴じゃないことくらいよく知ってる。ただ、この腐敗し切った日本の政党の体質に自分が染まることこそ、何より怖いし、一度汚れた権力に染まったら、抜け出せないだろう。ただ党利党略で、密室で物事が決まる世界、ここにいてはいけない!
もちろん、この謝罪を受け入れないと、もう私が公職につくことはないだろう。

先は見通せないけど、でも前へ・・・。

それから、

結局、打算は打算的な結果しか、もたらさないだろう。
私は、取引はしない。
自分は、ただ自分の良心のままに、できることを無条件でやる。
もちろん、恩は売らないし、見返りなんて求めない。

まぁ、そんな感じだ。
それで生きていける限界がどこにあるか?
知りたいなとも思う。

もうひとつ、私が起業して製品作った時に、「独占販売権を!」という要望があったが、私はそれを聞いた途端、間髪入れずに拒否した。
理由はただひとつ、「独占は自然の摂理に反する」。
もちろん、それを受け入れたら、以後、自分がどんなに経済的に楽になるかなんて分かり切ったことだ。しかも、私は金儲けに興味がない。願ったり叶ったりだ。

でも、私は、不確定な未来を選択した。

理由はよく分からないし、おかげで楽じゃないけど、間違ったとは微塵も思わないんだな(笑)

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