「ありがとう」のない世界・・・打算の拒否:真に人間的な社会とは?
「ありがとう」という言葉がとても大事だと思っている人は少なくない。特に日本人には多いと思う。それで人間関係がうまく行って、人生が円滑になる、この言葉を連発すれば、自分の運気も開ける!くらいに思っている人はたくさんいるだろう。そして、恩を決して忘れずにしっかり恩返しする人こそ、立派な人だ・・・。
でも、私は、この言葉が実はかなり嫌いだ。私が滅多にこの言葉を使わないことに、家族からも苦情がでることもある。でも、嫌いな理由がうまく説明できない・・・。
少し前、グレーバーの『負債論』の書評の中に、「イヌイットには、ありがとうという言葉がない」というコメントを見つけた。どういうことだろうとネットを調べても出てこない。あの本はいかんせん、日本の翻訳本にありがちにクソ高いし、ましてやkindle版がない、どでかい本だ。グレーバーは最大限リスペクトしてるけど、彼の話は長いし、私は、もう新しい通貨システム提案してんだから、いまさら負債のルーツ調べてもなぁ・・・。
でも・・・、しょうがないということで、なんと愚かにも旅立つ前に買って、旅に携えてきてしまった(笑)。以後、移動のたびに大きなスペースが邪魔すぎる・・・。
ふと、時間と心の余裕ができたので、その5センチ以上ある分厚い本、とりあえず読み進めたら・・・
あった。これが、当該全文だ。
政治をやってる頃、私は、はっきりと「打算を拒否」した出来事があった。
ここでこの議員の謝罪を受け入れたら、次は当選できるんだろうな。カネの苦労もなくなるだろう・・・党の幹部まで仲裁に入ってくれてんだし・・・。別に、許せないとかいう了見の狭い感情はないし、根が悪い奴じゃないことくらいよく知ってる。ただ、この腐敗し切った日本の政党の体質に自分が染まることこそ、何より怖いし、一度汚れた権力に染まったら、抜け出せないだろう。ただ党利党略で、密室で物事が決まる世界、ここにいてはいけない!
もちろん、この謝罪を受け入れないと、もう私が公職につくことはないだろう。
先は見通せないけど、でも前へ・・・。
それから、
結局、打算は打算的な結果しか、もたらさないだろう。
私は、取引はしない。
自分は、ただ自分の良心のままに、できることを無条件でやる。
もちろん、恩は売らないし、見返りなんて求めない。
まぁ、そんな感じだ。
それで生きていける限界がどこにあるか?
知りたいなとも思う。
もうひとつ、私が起業して製品作った時に、「独占販売権を!」という要望があったが、私はそれを聞いた途端、間髪入れずに拒否した。
理由はただひとつ、「独占は自然の摂理に反する」。
もちろん、それを受け入れたら、以後、自分がどんなに経済的に楽になるかなんて分かり切ったことだ。しかも、私は金儲けに興味がない。願ったり叶ったりだ。
でも、私は、不確定な未来を選択した。
理由はよく分からないし、おかげで楽じゃないけど、間違ったとは微塵も思わないんだな(笑)