掌編小説312 - 電子言霊の墓場送り
「ここがきみのデスクね」
と、眼鏡の男性に案内されたのは意外にも普通の、どこのオフィスにもあるような本当に普通のデスクだった。ねずみ色の事務机にはデスクトップ型のパソコンとキーボード、マウスだけが置かれていて、椅子は今どき中古用品店でしか見かけないような肘掛けもない小さなビジネスチェア。
「巡回するSNSはあらかじめブラウザに登録してあるから。アカウントのパスワードもメールで送ってあるからまずそれを確認してもらって、ログインしたらすぐはじめちゃって。ノルマとかはないけど、終業時間までは一応サボらないでね。休憩時間は二時からの三十分。質問ある?」
「いえ、とくには」
「じゃあよろしくね」
にこりともせず、というか、こちらに一瞥もくれないまま男性はさっさと自分のデスクへ引っこんでしまった。去年末に郵便局で年賀状仕分けの夜間バイトをしたときもこんな具合だったし、これは特筆すべきことじゃないかもしれない。とすると、やはりどこにでもある小さな会社の、なんの変哲もない事務系バイトという印象だ。「電子言霊の墓場送り/時給一六〇〇円/経験者のみ」とだけ、寂れた神社の石壁にひっそり貼りつけていたわりに。
そう、電子言霊の墓場送り――僕にはそれができるのだった。
文字にすると仰々しいけれど、字面ほどの神秘性はない。たとえば、言われたとおりブラウザにブックマークされたSNSに指定のアカウントでログインし、タイムラインを遡っていく。フォローしているのはおそらく、墓場送りの依頼があった企業や個人のアカウントだろう。彼らの投稿を一つひとつ確認していくとときどき、
『縺エ縺医s雜翫∴縺ヲ縺ア縺翫s』
このような投稿があらわれる。これが電子言霊。一度投稿しようとしたものの、なんらかの理由によってユーザーに削除されてしまった思考の残滓だ。これを視認できるのはある種の霊感を持った人々で、正しく「墓場送り」できる者はまた一握り――らしい。僕も感覚でやっているのでこれ以上の説明はしようがない。僕がこれを視認、あるいは墓場送りできるようになったのは、四年前、高校一年生のときだった。
話を戻すと、この電子言霊の墓場送りは素養のある人間が行えばなにも難しいことはない。一、電子言霊をクリックして詳細を表示する。二、画面の前で静かに手をあわせる。真心をこめて実際に手をあわせる人もいるが、僕は心の中でやるタイプだ。三、電子言霊に声が届いた場合、次に画面を見たときには本来投稿されるはずだった言葉が正しく表示されている。先ほどの電子言霊であれば「ぴえん越えてぱおん」といった具合だ。四、僕たち葬送者はこれを心静かに観測する。文字の存在意義は観測されることなので、これが果たされた電子言霊は、心穏やかにあるべき場所、言葉の墓場へと送られていく。これが電子言霊の墓場送り。まぁ、つまるところデバッグ作業の一種なのかもしれない。
「あの」
空調と打鍵音だけが粛々と響いていたオフィスで不意に声をかけられる。右側に座っていた女の子だった。肩のあたりまで伸びた髪は毛先にかけてだんだんと赤くなっていく不思議な黒色をしていて、モノクロのジップパーカーからはゆるいテイストの猫が描かれたTシャツがのぞいている。
「休憩行かないんスか?」
と、彼女はむこうをあごでしゃくってみせる。ドアには「会議室」とプレートが貼られているが、夜間は僕たちのようなバイトの休憩室にあてがわれているようだ。また一人、仕事に一区切りつけた先輩バイトがデスクから立ちあがって中へ入っていく。壁の時計はすでに午前二時をまわっていて、なるほど、たしかに三十分しかない貴重な休憩時間だ。
会議室前の廊下をまっすぐ行くと突きあたりに自販機が二台あって、彼女はそこで紙パックに入ったミルクティーを購入する。それに倣って、僕も紙パックの緑茶を買うことにする。てっきりこのあいだに彼女はさっさと会議室へ消えているものだと思っていたので、ふりむいたときにまだ彼女がそこにいたことにちょっと驚いてしまった。
「おにーさんも大学生?」
「うん」
「一年?」
「二年」
「あ、先輩だったんスね。よろしくです」
「気を遣わなくていいよ。バイトに関して言えば僕のほうがあとに入ったんだし。……あ、そしたら僕が敬語を使ったほうがいいのか」
「いや、もうめんどーだしおたがいタメ語ってことで」
「そうだね」
大学のこと、家族のこと、地元のこと、変な霊感のこと、そのせいでめぐりあったこの変なバイトのこと。真夜中、知らない会社のすみっこで、僕たちは声を潜めてつかのまのおしゃべりに興じる。廊下の照明は落とされていたから、窓から差す月明りで彼女は淡く発光しているように見えた。自販機の駆動音さえもが非現実的で、なんだか、夢でも見ているような心地がする。
「てかさ、最後まで言っちゃえばいいのにって思わん?」
と、彼女は言った。
「みんな、なにをそんな必死になって繕ってんだろ。つまんない言い間違いとか、意味のない独り言とか、自分のキャラにあってない意見とか。実際そこまで指が動いたなら、もうそこまでが自分じゃんね。言葉なんて文字にしたらみんな同じになっちゃうんだからさ、むしろそういう小さなところで個性出してかなきゃ、わざわざ文字で残す意味ないと思うんだけど」
彼女の言っていることは、正しい。だけど僕は、どちらかといえばその、必死になって繕ってる「みんな」のほうだから。きみは強いね。賢いね。優しいね。去来する彼女のためのたくさんの言葉を、結局、最後まで言えないままあっというまに三十分を費やしてしまう。つきあってくれてサンクス。会議室のドアから続々と人が戻ってきて、僕たちもぼちぼち仕事に戻らければというとき、彼女はそう言って手までふってみせる。僕が伝えられたことなんて、ほとんどなにもなかったのに。
誤字、脱字、推敲しているうちに熱の冷めた怒り、意味のないジョーク、ポエムじみた感傷、実用性のないアイディア、真夜中の思いつき、二度と誰にも届くことのない本音……電子の深海に夜明けなどなく、そこではまだ、彷徨える言霊たちがあるべき場所を探して儚くたゆたっている。その一つひとつを拾いあげ、祈り、観測する。墓場へと送られていく言葉たちの残像は海上をめざして浮きあがるクラゲに似ていて、それはいつしか、月明りの中で淡く発光する彼女の横顔と重なっていった。
「あの」
空調と打鍵音だけが粛々と響いていたオフィスで、今度は僕が、声をかける。
「五時だよ」
「――あ、ほんとだ。おつ」
性別も年齢もまちまちの男女が誰からともなく立ちあがり、無言のまま、ぞろぞろとオフィスの出入口にむかう。脇に設置された長机の上にクリップボードに留められた紙と鉛筆があり、そこに退勤時間を記入すれば、僕の初出勤も終了となる。
「あのさ」
急な階段を転ばないように慎重に降り、白みはじめた早朝の空の下で僕はようやく口を開く。指から紡がれる言葉と違って、口から紡がれる言葉は、死ぬことがない。一握りの人間に与えられたこの変な能力を使ったって、墓場へ送ることなどできない。だけど言わずにはいられなかった。だって僕たちは一時的な、短期のバイトだ。僕が通うこの数週間のあいだに、彼女があと何回ここへ来るのか、僕は知らない。
最後まで言っちゃえばいいのにって思わん? 彼女の言葉が、さっきからずっとリフレインしている。
「もし、迷惑じゃなければ。今からどこか朝ごはんでも食べに行かない?」
これがたとえばSNSで送るメッセージだったら、添削して添削して、きっと最後にはなにもかもが電子言霊になっていただろう。だけどもうやりなおしはきかない。だったら最後まで。せめて、大事なことだけは、相手の目を見て。
「きみと友達になりたいんだ」
あのとき死んでしまった言葉のすべてを、今度こそ、きみにきちんと伝えたいから。