掌編小説313(お題:プレッツェル知恵の輪)
日曜日、よく晴れた午後のことだった。
街の中心にある噴水広場のベンチに老人が一人で座っている。普段なら気にも留めないあまりにありふれた光景。なのにわざわざ足を止めたのは、老人の持っているものがプレッツェルだったからだった。
一個ではない。両手に二つ。大きなお世話だと思いつつ、ご高齢の紳士が食べるには少々難のあるチョイスだと思った。歯が欠けてしまうかもしれないし、のどにつまらせてしまうかもしれない。ちょっと心配だった。それでなんとなく、老人がまずその一口を無事に食べきるのを見届けなければという気になってしまった。
遠くからさりげなく見届けるつもりだったのだけど、思っていたより老人の感覚は鋭い。このときまで一度も目は合わなかったはずだが、
「もし」
不意に老人はこちらをむいてちょいちょいと手招きしてきた。
「僕ですか?」
「きみ、賢いかね」
鼻の頭を指し示して訊いたけれど、視線はふたたび手元に落ちて勝手に話を先へと進めている。他に彼へ興味を示す者はいないし、書店で用事を済ませたあとこれといった用事もなく街をぶらついていただけの僕は、あきらめてとうとう彼のとなりに腰を落とした。
「賢いのかね」
しつこく訊くので、
「一応、大学は出ました」
指先で頬を掻きつつ答える。
「ここのパン屋は知っているか。私の家のすぐそばにある、すこぶる美味いパン屋だ。名物はレーズンパンだとあの女主人は言うが、私は昔からこのプレッツェルが好きだった。とくに焼きたてが最高だ。運よく焼きたてを買えた日は、こうして家に帰らずここで出来たてを食うことにしている」
「へぇ」
街に有名なパン屋はいくつかあるけれど、老人がどの店を指しているのか、あるいはそのどれでもないのかはまったくわからない。曖昧に相槌を打って足をぶらつかせていると、老人は不意にまたこちらをむいて、
「しかし今日のプレッツェルは難しい」
と言った。
なにをわけのわからないことを、と最初は思ったけれど、なるほど老人の視線を追ってその手元を見るとたしかにそのプレッツェルは難しかった。左右の手にある二つのプレッツェルが、あの不思議で愉快な輪っかの一つで奇妙につながっている。それはまるで知恵の輪だった。
「これは、きみ解けるかね」
言いながら老人がそれを押しつけてくる。右のプレッツェルを押しつけるから、左のプレッツェルが女のイヤリングみたく宙ぶらりんになって小さく揺れた。代わりに老人はむんずとかたわらの紙袋をつかみ、ひっくり返して底のパン屑を足元に撒く。またたくまに小鳥たちが集まってきた。背後の噴水の音が涼しく、のどかだった。
「かじればいいのでは」
「なに?」
老人が、右の眉だけを器用に持ちあげてぐるりと大げさに僕を見やる。
「プレッツェルを一つずつ個々の状態にしたいんですよね?」
「そうだな」
「なら、まずはとりあえずこの連結部分にかぶりつけばいいんじゃないかと」
教会のほうへ、子供たちがきゃあきゃあはしゃぎながら駆けていく。それで小鳥たちが一斉に飛び去った。そのあいだ老人は僕から微塵も目をそらさなかった。瞳の色は、プレッツェルと同じこんがりとしたブラウン。無性にパンが食べたくなってきた。老人の言うパン屋はどこにあるのだろう。訊ける雰囲気ではなかった。僕の家の近くにだってパン屋はある。けど、プレッツェルは置いてなかった。今はどうにもプレッツェルが食べたい気分だ。もちろん、こんな知恵の輪みたいにこんがらがってはいない、ただ焼きたてで美味しいだけの難しくないプレッツェルを。
「指でちぎってもいいと思います」
まだ老人が一言も返さないのが気まずくて、僕はえへえへと笑ってその手元へやや強引にプレッツェルを押しつける。立ちあがり、では、と軽く頭を下げたあとも老人は黙ってこちらを見つめたままだった。
とうに十歩は歩いてしまったあとで一度だけうしろをふりかえる。老人は、いつのまにかもそもそとプレッツェルを食べはじめていた。歯が欠けることも、のどにつまらせることもなく。左右の手にプレッツェルは一つずつ。どちらも、あの不思議で愉快な輪っかの一つにかじったあとが浮かんでいる。
口もとだけが動いていて、遠くを見つめたまま、老人は静かだった。
プレッツェルが食べたいという気持ちはもうすっかりなくなっている。代わりに、心臓のあたりがぐにゅぐにゅと難しくなっていく感じがした。口の中がからからに乾いている。レモネードが飲みたくて、帰りはレモネードスタンドのある中央通りを、もっと人通りが多くてにぎやかなところを、わざと選んで歩いた。