お茶への情熱を100年繋いだ物語
仰々しいタイトルにしてしまいましたが、佐々木製茶と佐々木家の物語です。
米農家からの転身
1921年(大正10年)、静岡県の上内田地域で米農家を営む佐々木平吉29歳(私の曽祖父)は悩んでいました。
「このまま米農家を続けて良いのだろうか?」
「米農家に未来はあるのだろうか?」
米騒動の影響もあり、米の価格が激しく動いていた時代。
平吉は意を決して、新しい事業を始めることにしました。
当時、日本の主要輸出品は「生糸」と「茶」であり、養蚕業か茶業への転身は国が推奨していました。
「どうせ新しいことをするなら、世界に向けて自分の作ったものを売ってみたい」そう思ったかどうかは定かではありませんが、平吉は、妻とりに「新しい事業をやろうと思うが、蚕か茶、どちらが良いか」と聞きました。そこでとりは「私は虫が嫌いだから、茶にしてもらいたい」と言いました(今も昔も、農家をやるということはお嫁さんも畑に入ることが多い。きっとひいおばあちゃんも、茶畑にだって虫はいることは重々承知の上で、それでも蚕よりは…と思ったのでしょう)。
平吉の先の時代を見据えた決断と、とりの虫嫌いという2つの奇跡が重なり、佐々木家はその後100年以上続くお茶作りをスタートさせました。
29歳から未経験で始める製茶事業。当然、ノウハウは1つも持っていません。近隣に住む帯金(オビカネ)氏に教えを乞い、また帯金氏に茶の販売の支援も受けることで、なんとか茶農家としてのスタートを切りました。
順風満帆なスタートではなく、初めての茶畑つくりでも沢山の苦労があったと聞いていますし、せっかく作ったお茶の品質が低いということで全く売れなかったり、代金を回収できない詐欺(取り込み詐欺)に遭ったことも一度や二度ではなかったようです。そのような困難を乗り越えながら、徐々に製茶のノウハウ、事業の経験を溜めていったのでした。
戦争による物資不足
時は流れ1943年(昭和18年)。2年前に始まった大東亜戦争により日本中で資源、人手が不足した時代。
製茶業も同様で、製茶機械を動かすための燃料、製茶業を運営する上での人手が極端に不足していました。平吉のような個人農家に対する物資の配給は滞ることが多かったそうです。
51歳の平吉は、このままでは茶業を続けることが不可能であると判断し、個人農家よりも物資の配給が優先的になるであろう、人手不足を解消できる可能性がある、協同工場の設立を考えました。
平吉は近隣の茶農家150人に声をかけ、皆でお金を出し合い、「カネジョウ製茶協同組合」を設立しました。今も佐々木製茶の屋号である「カネジョウ」。それは、平吉に製茶の全てを教えてくれた帯金さんの「カネ」、近隣の農家皆が住む上内田地域の「ジョウ(上)」という2つの意味が込められており、挑戦を応援してくれた師匠、一緒に挑戦してくれた農家さん、それぞれへの感謝が込められた屋号になっています。
この150人の農家さんがいなければ、今佐々木家はお茶の仕事に携わることすらできていなかったかもしれません。代々、家ではあまり多くのことは語らない佐々木家の社長たちでしたが、「農家を大切に」この1点だけは強烈に伝承されています。農家さんたちへの感謝、農家さんたちへのリスペクト。このことだけは忘れてはならないと思っています。
戦後の復興と内需の拡大
終戦後、平吉の長男(つまり私の祖父) 佐々木禎治(テイジ)が軍隊から帰ってきました。
それまでのカネジョウ製茶協同組合では販売機能を組合内に持たず、代わりに販売してくれる会社に任せていました。しかし、その会社も戦争で被災し、それまでお茶を飲んでくださっていた方々も皆被災してしまったという状況です。
禎治はその状況を見て、「日本一のお茶屋になる」と志し、販売機能も自分たちで持とうと考え、1946年(昭和21年)佐々木商店を設立しました。禎治が26歳の時のことでした。カネジョウ製茶協同組合と佐々木商店とで、今で言う生販一体の体制となり、農園から食卓まで、最高品質のお茶を一気通貫でお届けできるようになりました。
佐々木商店は関東地方の販路開拓を目指しました。当時は買い物をするといえば商店街に行けば何でも揃った時代。日本中の商店街には必ず「お茶屋」「お茶と海苔を売っている専門店」がありました。
ありがたいことに東京、千葉、埼玉、神奈川の有力なお茶専門店様がカネジョウのお茶を気に入ってくださり、かつ戦後の復興に伴い日本の一般家庭でも毎日のようにお茶が飲まれるようになったことから、自社のみならず、全国のお茶屋は大きく売上を伸ばしました。当時「社員数25名で売上25億円」と新聞に掲載されたこともあったそうです。
佐々木製茶は各地の専門店の製品の原料を製造する会社として成長していきました。そのため、佐々木製茶という名前が一般消費者の目に触れることは少なく、原料メーカーとしての地位を確立していきました。
ニーズの多様化と自社ブランド立ち上げ
1985年、伊藤園さんから世界初缶入り煎茶が発売されました。それまで家の中で飲まれるものだったお茶が、缶に入ったことでアウトドアで飲まれるようになりました。現在コンビニやスーパーに行けば、お茶飲料のペットボトルが様々なブランドから発売、陳列されています。2024年のペットボトルのお茶飲料の市場規模は、約4兆4,660億円と予測されています。約40年前まではこの市場が存在しなかったと思うと、茶業界にとってどれほどの影響があったかお分かりいただけるかと思います。また、ペットボトル以外にも、粉末茶、ティーバックなど簡単に手軽に飲めるお茶の人気も高まりました。更に、抹茶、紅茶、ウーロン茶、ハーブティー、フルーツティーなど様々なお茶を楽しみたいという需要も増えました。急須を使ってお茶を淹れるだけではない、様々なニーズに対応すべく佐々木製茶でも工場の新設、製造ラインの新設、茶畑の改良を進めていきました。
また、それまでの原料メーカーという立ち位置も大切にしつつ、自社のブランドを作って一般消費者の皆様にお届けしたいという思いで「茶の庭」という通販サイト及びアンテナショップ(カフェ&ショップ)を立ち上げました。現社長の佐々木余志彦(私の父)がこれらの改革、挑戦をしてきたわけですが、いつの時代も、新しいことに挑戦するときは賛否両論あった様です。それでも「農家を大切に」しながら、「どうやったらもっとお客様に喜んでもらえるか?」を考え続けたことで行き着いたアクションでした。
↓茶の庭オンラインショップ
https://www.chanoniwa-online.com/
佐々木製茶のこれから
佐々木製茶の発足となった佐々木平吉と150人の農家さんたち。彼らの子孫の皆さんが、今でも佐々木製茶の組合農家として一緒にお茶を生産くださっています。
茶業界で、生販一体で経営している事業体は珍しく、佐々木製茶の特色の一つです。そのため私は、農家さんの物質的、心理的な豊かさに非常に強い関心があります。
ではどうやったら農家さんを豊かにできるのか。私は、
・世界的に日本茶の消費量が増える
・消費者のニーズに合わせた製品を作り続ける
・安心して、効率的に(身体的に楽に)生産できる体制を整える
の3点が非常に重要だと考えます。
この3点を実現していくための行動を農家さんと一緒に取り組んでいきます。
また、改めて、私たちは何のためにお茶を作っているのか?を考えました。
残念ながら、お茶は無くても生きていけます。水や空気のように、無くては生きていけないものではありませんし、生活必需品というジャンルにも属しません。
ですが、人類は紀元前2700年からお茶を生活に取り入れていたと言われています。日本においては遣隋使、遣唐使たちが日本に持ち帰り、お茶の文化は途切れることなく脈々と受け継がれ、発展してきました。
なぜ人類はお茶を飲み続けてきたのでしょうか?
きっとそれぞれの時代、それぞれの地域、それぞれの人にとってお茶の価値は様々だったと思います。
では現代においてはどうでしょうか。
この1年、毎日急須でお茶を淹れていて思ったことがあります。
「この時間、贅沢だな」と。
煎茶を急須で淹れる場合、沸かしたお湯を熱湯のまま急須に入れるよりも、65〜75度くらいになるまで冷ましたほうが美味しく飲めます。
また、急須にお湯を注いだあと、1分ほど蒸らす時間があります。
つまり、一杯のお茶を飲む前に「待つ時間」が発生するわけです。
何もせず待つ時間というものは、多忙な日々の中で無駄なようなものに思えてしまい、ついスマホを触りたくなってしますが、私は敢えてこの時間を「きちんと」何もせず待つ時間にしています。この時間は、頭と心を落ち着かせ、地に足をつけるための時間と捉えています。この何もせず待つ時間が癖になり、ある種のマインドフルネスのような、とても贅沢な時間だと感じるようになりました。
私はこの時間のことをQuality time(質の高い時間)と呼んでいて、佐々木製茶のお茶を飲んでいただく方々には「日常の中にQuality timeを」感じていただけるような製品を作っていきたいと思っています。
これからもお茶への情熱は繋がっていきます。
日本茶のこと、日本文化のこと、世界へ日本文化を広めていくことなどに関心がある方は、お気軽にご連絡いただければと思います。