死生観と街並み/家屋
ひとの死生観に街並みや家の構造、デザインなど周辺環境がどう影響しているかが気になっている。例えば南房総で古い日本家屋に訪問診療でいくと、客間には先祖代々の肖像画や肖像写真が飾ってある。寝起きするのは別の部屋のことが多いが、こういうご先祖様に囲まれた家で年をとったり、家族を介護したり、看取ったりする
同様に、集落によっては集落を見下ろす山の斜面だったり、海に開けた斜面だったりに代々のお墓がある。どちらにせよ生活からちょっと離れているけど近いところに。こういう家や街の構造は、そうでない近代的/現代的住宅や街と比べて、死生観などが異なったものになりそうだけど、どうなんだろう。
ここからはやや危なっかしいかもしれないが、こういう観点からひとが死や喪失について考えることを支援できないか、と考えてみたい。自分や家族の死について考える用意がなく、急なことで苦しむ人をみているとそう思う。
究極的に個人的体験である死を、公共や公衆衛生的な観点から扱うことは危うさもはらむが、一方でいまは「個人の意思決定」として本人や周囲のひとや家族のみに重い精神的な負担を抱え込ませていないか。昔は社会環境や宗教などで知らず知らずのうちに社会的に負担がシェアされていたのが、いまは小綺麗にさっぱり「近代的個人」を想定した結果、むしろ「個人」の単位に押し付けられただけではないか。
そうであれば歴史と文化に根ざした新しい社会的支援の方法があってもよいかもしれない。古いシェアの構造が残っている間にそれを調べることが、新しいシェアの形のヒントになる気がする。意図して、当人たちも気がつかない支援というとナッジのように聞こえるが、実際はもっと意図を漂白して、文化とか文脈というようなイメージ。
危うさはあり、かなり自制的でないといけないが、昨今の高齢化や死生観に絡む議論(そして多分に世代間対立を煽るような意見)にあるような、年齢区分で保険を制限したり、事前指示やACPを義務化するというような乱暴な議論よりは、ソフトで丁寧なアプローチになるように思う。
さらに言えば、「本人の意思」「家族の意思」とそんなに明確に分かれるものでもなくて、関係する人たちの相互作用のネットワークの中で決定は行われていると僕は捉えているので、個人が前提になる西欧的背景とは文脈が異なっていて(西欧でもそれぞれのひとの中では理論的な個人なんてないのかもしれないが、少なくとも日本の文脈では)このネットワークに働きかけることは方法として考慮できると思う。
今回は主に死や死生観の話を書いたけれど、日常的な喪失体験とか苦しい/悲しい経験もおそらく同様だし、地域でのボランティアや連帯、コミュニティでも「こういうのはヨーロッパにはあるけど、日本にはこういうのはない」と言われるような齟齬も、丁寧に古くからある地縁型コミュニティとか寄合とかと、その中で個々の人と人間関係がどう関係しているかを考えると、単純に「日本ではボランティアはあまり盛んではない」とは言えなくなる可能性もあるような気もしている。