「救命を重視するパターナリズム」という急性期/臓器別診療科のステレオタイプ
ちょっと臨床っぽい話。
・臨床倫理についての院内研修に参加した。これは面白かった
・倫理の4分割表というテーマ。例えば、延命など倫理的に悩む患者について多職種で集まって検討するひとつのフレームワークで、①純粋に医学的観点②患者自身の意思や希望③患者の生活の質や価値観④家族の意向や経済的なことなどの周囲の様々な因子に分割して検討するというもの
・一昔前の「なんでも救命、治療していくことが正義!患者が死ぬことは医療の敗北!」というような医学モデルを押しつけるパターナリズムは当然よくないが、
「高齢だし重症だし、この治療をしても本人が苦しむだけですよ、うまく救命しても寝たきりですよ」というような説明は最近(そして亀田界隈では)主流だけれど、それはそれで医師の側が「生活の質やADLが大事だと思う」という別の形でのパターナリズムだと思っている
・注意しなければ、結局どちらも形を変えたパターナリズム。後者のほうが、パターナリズムが無自覚であるケースが多いだけむしろ有害。
・八戸にいたときは八戸にいたときで違和感があったし、南房総にきてからは南房総にきてからでこの点にずっと違和感がある
・4分割表にしても、それぞれの要素はそれぞれ互いに影響しあっている
・特に医学的観点や医学的な将来の見込みについては、専門家側が一方的に情報を握っていて、その話しぶりは患者の希望にも、家族の意向にも影響し、そして治療介入後に予測される生活の質の予測にも直結する
・一方で、医学的な将来の見込みは担当する専門家サイドによってのブレも大きい
・特に高齢者や重症患者は、個別性が高い。臨床研究でも対象に含まれないことが多い。もちろんそれだけ難しいことが多いということでもあるが。
・そして治療しなければ(中途半端な治療であれば)簡単に死ぬ
・亀田界隈に来てから感じるのは「高齢だし重症なので予後が悪いです。無理せず安楽に看取りましょう」というのは間違いではないけれど、それしかやってこなかった臨床家はそれしか患者に選択肢を提示できなくなるのではないか、ということ。そして外来、集中治療、病棟、慢性期、疾患や臓器別に分業が進めば進むほど、患者さんの予後を臨床家としてベッドサイドで学ぶ機会は減っていくのではないか、ということ。そういう環境で育った臨床家は、どれくらいの治療をすればどれくらいの割合の人がどれくらい回復するのかの見込みを提示できなくなる。そして、重症+高齢の患者に対して看取りの方針を選択した場合、実際に亡くなっていくので「あの選択肢で合っていたんだ」という認識が強化される回路になる
・僕の専門である「救命救急」「集中治療」は、はじめに述べた「とにかく救命!」という旧来の医学的なパターナリズムというステレオタイプで語られ、(そうでないスタイルの医師が「患者の意思を尊重する医師」と語られがちであるが)そうではないと考えている。むしろ選択肢を増やす役割を担っている
・重症で高齢なら完全に元通りになるのは難しいかもしれないけれど、例えば一定の確率でもともと歩いていた高齢者が「車椅子生活でおしゃべりできる状態になる」「ベッド上生活でぼけてしまっていても家族と在宅で暮らしている」などのゴールが得られるなら頑張りたいという価値観の患者や家族に対して、「選択肢を増やす/拡げる」治療を行っているのが救命であると考えている。そして「安楽な」看取りばかりを経験した臨床家にはこの選択肢は提示できない
・「寝たきりで気管切開でも生き続けたい」「ボケても少しでも食事を楽しめればよい」というような生活でも本人がよければよし!と選択肢を提示できることは、「寝たきりになってしまいますよ、気管切開ですよ、無為な延命ですよ」という説明の「今風の患者の意思を重んじる臨床」よりも患者の価値観を重視した診療ができると考えている
・あと、医師は…急性期診療科は…臓器別診療科は…医学的なことを重視するというのも一種のステレオタイプであるよなぁ、と。