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パブリックライフ/コミュニティの功罪とウェルビーイング: タウンミーティング原稿

昨年の7月末以来、1年ちょっとぶりにまたお話をさせていただく機会を得ました。場所は、カフェMANDI・シェア型書店「風六堂」の庭です。

内容的には「自己紹介→公衆衛生とイギリス→イギリスの文化と絡めつつ思想史的な話→ウェルビーイングやコミュニティの話」というような展開です。
思想史的な話といわゆる「まちづくり」という部分、どちらも僕としては大切な話題なのですが、分量の関係で、本当はもっと入れたかった具体的な実践の話が表面的になってしまいました。それはそれで整理してまた別記事を書きたいと思います。

問題意識

原稿は長いので、ここでは根底にある問題意識だけいくつかポイントで書きます。
・「充実して豊かな田舎暮らしのイメージ(イギリス的)」と「生活者の姿がみえない車優先社会イメージ」「娯楽が乏しく退屈な田舎のイメージ」はどちらも本当であるように思える。どのように解釈すればよい?少なくとも車社会や誰かが退屈してしまう街は「健康でもないし、ウェルビーイングでもない」
(※あえて田舎と表現してます)
・「退屈しない充実した都市生活のイメージ」「大量生産大量消費する都市」「広告やSNSに踊らされる”みせびらかしのための消費”をしたひとが集う都市のイメージ」「過密、過労、低賃金、高い生活費で非人間的な都市生活のイメージ」でも僕自身東京で生まれ育って、東京の便利さも魅力も(消費だけではなくて人との交流や文化的/学問としての魅力も含め)すごく理解できる。これもどのように解釈すればよい?現代の過密/過剰消費の都市生活も健康でもないしウェルビーイングでもない。
・でも「田舎こそ豊かで、都会的消費はおろかだ!」と単純に批判できるか?それは短絡的すぎる
・個や家族など内向きな生活を充実させる生活+それ以外の公的空間が閑散とした地方 vs. 「個の消費」を加速させて退屈から逃れようとする(しかし満たされることはない)都市。どちらもうまくいかない。
・「ただそのままいることのできる場所」「それでいて社会に属している実感が得られる場所」「偶発的に人との交流が発生しうるし、したくないひとはしないで済む場所」のような空間(パブリックスペース)が、田舎も都市も欠如しているのではないか? なぜならどちらも「内向き」になっているから。
・これらへの一つの解決策として、「コミュニティの大切さ」が提示されうるが、田舎で想定される最も代表的「コミュニティ」である町内会などは「地縁型コミュニティ」と呼ばれる。地縁型コミュニティは、ムラ社会的性質、保守的価値観や誰かが排除される(そしてそれは往々にして辺縁的な存在)という課題があることも多い。(ただし地縁は地縁で重要で、社会関係資本である。ただしこのような土地では社会関係資本へアクセスできる人がコミュニティ内に限定されていて、辺縁的な者との間に格差が存在する。よって、ここに健康アプローチするときにはだれが潜在的に排除されているかを考慮しなくてならない。町内会など対象の健康増進だけの介入はむしろ健康格差を増大させることもあるかもしれない)
・趣味やボランティアなどの「テーマ型コミュニティ」はこれを乗り越えうるが、「一定の熱量(ある趣味への情熱、など)」か「一定の性質(母親であること、など)」を要するという課題がある。これはこれでみんなが参加できるわけではない。できるだけ多くのひとを包摂するためには、多くのテーマ/コミュニティが必要で、テーマ型コミュニティの設立/維持をサポートすることが必要。また「テーマ設定」を工夫することでマイノリティ/辺縁的な存在を包摂することも重要(ここはSDHや社会的処方などのメゾな取組に強く関わる分野と思う。ハームリダクションとか。社会関係資本を耕すような活動。しかしこれに参加するにはそのテーマへの関心という「文化的側面」があり、参加者やその地域に潜在的に存在する文化的資本が前提条件となるかもしれない。よく「東京には美術館などの文化がある!」「いや美術館などだけを文化とするのは一面的だ。地方には語られない伝統文化がある!」というような議論があるが、これは「どのようなタイプの文化がそこの存在するか、どれほど多様なジャンルの文化が存在するか、どれくらい特定ジャンルに偏っているか」という話題なのかもしれない)
・ここでどちらの課題も指摘したが、もちろん「地縁型コミュニティ」も「テーマ型コミュニティ」も重要で、健康へもウェルビーイングへもつながると思う
・しかし、地縁型コミュニティやテーマ型コミュニティの限界を乗り越えるためにこそ「なにものでもないものが存在できる街/社会/都市計画」にすることが必要なのではないか(ヨーロッパの教会前の広場/街道や縁側/歩行者優先の街/図書館/オープンカフェやベンチ/ただウィンドウショッピングできるデパートなど…)
・都市設計だけではなくて、「だれでもwelcome」「だれでもそのままで受け入れる」そういう空気の醸成も必要(コンパッションコミュニティ/エイジングフレンドリー社会/認知症フレンドリー社会/ウォームスペースやクールシェルター/○○対話など)
・ただし、ひとによってどこに「ウェルカムさ」を感じるかは異なるのかもしれない。都市の人がデパートやおしゃれなカフェに行くのは、「誇示的な消費」という側面だけではなく「そこがウォーカブルで、自分がただいられる空間だから」という側面もあるように思う

・ウェルビーイングという話題の中で「コミュニティ」「つながり」ばかりが強調されるのは、「well-being」という欧米から直輸入した用語をもちいているからのように思う。ウェルビーイングのために大切な5つ要素として「つながること、活動的であること、誰かに認識されること、学び続けること、なにかを与えること」が挙げられているが、その多くは「well-being」ではなく「well-doing:なにかをすること」になっている。
・ウェルビーイングは、Happiness幸福と強く関連するものとしてMPHの講義でも扱われるが、東洋哲学的にはそれは違うように思える。幸福は幸せではないし、死や苦痛も含めて考えないと。
・ウェルビーイングが「well-doing なにかすること」と捉えられているからこそ「コミュニティ」や「つながり」ばかりが強調され、「ただそこにいることができる場所:パブリックスペース」の重要性があまり言われないのではないか。むしろ「ウォーカブルな街」は内容面では共通するが「歩行による狭義の健康」「大気汚染改善による狭義の健康」がよくいわれる支持理由のように感じる

・都市も田舎も「個」や「家庭」に個別化されて、それぞれ「退屈を紛らわす消費」と「内向きの充実感」となり、パブリックスペースやコミュニティが弱くなったことは、個人と社会/行政/政治が分離されたこととも関連するように思う
・個人-家族-コミュニティ-社会活動(仕事、ボランティア、学校etc.)のうち、個人/家族/仕事だけが取り出されてしまっている現状(だからワーク-ライフバランスとかプライベートの充実、というような言い回しが多いのだろう)に対して、その「中間的な活動」「支払われない活動や役割」を強化していくことで、もう一度そこをつなげるのではないか。これは都市でも田舎でも。
・結果的には「健康の社会的決定要因」「ウェルビーイングの社会的決定要因」を意識した政治とか、健全な民主主義の維持とか、気候変動対策や生物多様性を重視することなど一見遠いテーマと生活をつなげることができるのではないか。

結局やること(もちろん内容としては健康やウェルビーイングに関わることが多めにしつつ…)
・パブリックライフのある街(歩ける街、広場/縁側など…)
・歩行者を大切にする街:まずは1か所/限られた時間でも自動車フリーの歩行者天国の区間など。
・死や喪失について扱う様々な取組(ピアサポート、死生学カフェや対話、詩や写真の会、座談会、遺影撮影会、お棺体験、骨壺セルフデザイン…)
・テーマ型コミュニティの設立/維持の推進(特に辺縁的な人々や格差を意識して。ハームリダクションも。できるだけ多くのテーマや文化ジャンルを。)
・すでにある社会資本/ネットワークとしての地縁型コミュニティへの関与/活用
・「医療」「健康」というテーマでつながるコミュニティとして「開かれた病院」 日常的な病院スタッフと地域住民の接点の増加
・開かれた医療・介護・福祉情報と意見交換
→ゆくゆくは、健康やウェルビーイングを意識した都市計画や政策、「医療の民主化」

原稿 健康でwell beingな和魂洋才のまちづくり

(※以下原稿です。原稿を少し清書しただけなので、昨年との重複、論理の展開の甘さ、話の焦点がボケる部分がありますが、話し言葉に近いのでその点はご了承ください。)

―昭笑村塾 館山の明日を語ろう― 佐々木暁洋
2024年9月21日 16:00-17:30 @カフェMANDIの庭
健康でwell beingな和魂洋才のまちづくり

①  自己紹介と概略

今日は、お集まりいただき、またこのような場によんでいただき、ありがとうございます。
昨年7月、ちょうど留学にいく直前に全く同じこの場所に読んでいただきお話させていただく機会がありました。はじめましての方もいらっしゃいますし、1年以上前のことなので、その際と一部同じ内容も話します。
が、今回は、せっかくイギリスに行ってきたので、イギリスやヨーロッパの話などからはいって、徐々にまちづくりの話をしていきたいと思います。
ところでイギリス、というとどんなことを想像しますか?
今回は、シャーロックホームズ、切り裂きジャック、日本での民藝運動に対応するアートアンドクラフトや日本でもデザインが人気なウィリアムモリス、チャーリーとチョコレート工場のモデル、アフタヌーンティー文化とガーデニング文化などイギリスといえば想像するようなことを紹介しつつ、それがどういう風に健康や福祉、まちづくりと関係するのかお話したいと思います。
 
さて簡単に自己紹介すると僕自身は、現在は安房地域医療センターの救急科に勤務する救命救急医、集中治療医です。
静岡県蒲原という干しサクラエビの産地で生まれ、5歳から24歳まで東京で育ちました。その後、青森県八戸市で研修医、救急科後期研修医を経験したあと、2019年から鴨川の亀田総合病院救急科/集中治療科で2年間、2021年ちょうどコロナ禍に安房地域医療センター救急科部長を務めました。
さらにこういったまちづくりや政治行政に興味があることから、2022年は東京にある「政策研究大学院大学」というところで公共政策学、簡単にいうと政治や行政について1年間勉強し、さらに「健康」と「公共」の関わりを学ぶために「公衆衛生学先進国」のイギリスへ昨年8月から1年間留学しました。この夏に帰国して現在は安房地域医療センターで働いています。
 

②    公衆衛生とはなにか

さて少しずつ本題に入ります
公衆衛生を学んできた、といいましたが、どんな学問か想像できますか?
コロナ禍を経て、少し想像がつく方もいらっしゃるかもしれません、
日本語でいうとわかりにくいのですが、英語でいうとPublic Healthといって、「公共の健康」ということです。みんなの健康ということです。
例えば、感染症の発生状況を調べて原因を特定してそれを管理したり、
健康診断や予防、ワクチン、健康情報を提供したり。このあたりは保健所の仕事というとなんとなく想像できるかもしれません。
でも「みんなの健康」なので、もっと広いことも含まれます。厚生労働省がやっているような医療行政や健康保険の仕組みをどうするか、ということもそうです。
日本では、これくらいまでが公衆衛生と認識されるのですが、イギリスやヨーロッパの文脈では、都市計画、貧困、環境問題、民主主義の在り方などかなり広い範囲の内容が「みんなの健康に関わる事」とされています。
こういう社会のいろんな要素や構造が健康に関わっている、健康に影響を与えている、という考え方を「健康の社会的決定要因」と専門用語でよびます。つまり、健康に影響する社会的な原因ということです。
 
また、「こういうデータで、貧困層には糖尿病が多い」というデータが出すだけの学問ではなく「では、それを改善するためにはどういう制度が必要か?」という実践や制度の話まで考えます。
さらにいえば、医療や介護と関係する中で生きているひとが、どんな風に感じて、どんな苦しみをもっているか、人文学や歴史学、社会学、倫理学のような側面から検討していくことも含まれています。日本だと、医者でも「公衆衛生は数字などのデータを扱う分野」と考えるひとが多いのと比べると対照的です。
 
実は、こういった学問分野、もちろんアメリカでも学問は盛んですが、イギリスが第一人者的な国のひとつなんです。
それがなぜか、という話をしていきます
ちなみに、イギリスもいいところばかりではなく、階級格差、貧富の格差、移民や人種、肥満などの問題、どの国もそうですが国家財政の限界と医療や福祉のバランスなどたくさん問題点がありますが、今日はそこには触れずにいきますね。
 

③   なぜイギリスか~社会と文化と思想の歴史から~

イギリスが公衆衛生という学問を学ぶ先として先進国であるにはいくつかの理由があります。今回の話の本筋と関係ないけれど、重要な点としては大英帝国の歴史です。つまりたくさん植民地をもっていたためです。自分たちと異なる、多くは熱帯の国々を支配して統治するときに、見知らぬ病気をコントロールしたり、そこのひとに「よりたくさん働いてもらったり」、そのためのインフラを整備する。そのための統治の学問という側面があります。実際、他国からの留学生は旧大英帝国植民地出身のひとたちはたくさんいました。
 
そしてもうひとつ大切な点は、産業革命です。
実は、僕が留学した先のイギリスのイングランドにあるバーミンガムという町は、サッカーで有名なリバプール/マンチェスターと並んで産業革命の中心的な土地でした。
実際、街の中心部には、世界で初めて蒸気期間を開発した「ワット」さんの銅像がたっています。このひとは今も電気の単位の「ワット」になったひとですね。

 
蒸気機関が起点になって、リバプール、マンチェスター、バーミンガムの周りでは、金属加工業や陶器の製造などが非常に盛んになりました。いまでもバーミンガムでは、万年筆のペン先を製造していますし、近くのシェフィールドという町は、「日本の関、ドイツのゾーリンゲン、イギリスのシェフィールド」という3Sというくらい刃物が盛んなところです。また高級焼き物で有名なウェッジウッドなどもバーミンガムの少し北にあります。
このように、イギリスは産業革命発祥の国でありそこから大きく発展するわけですが、当然のように多くの問題が起きます。
このような工場を経営する経営者と労働者の大きな格差。のちにマルクス・エンゲルスが批判して共産主義/社会主義の起点となった点ですね。
児童労働や長時間労働。労働者の劣悪な労働環境。過密な居住環境。
その結果としての、貧困層のジンなど安価で(当時は劣悪な)酒によるアルコール依存。女性の身売りや売春。犯罪の増加。都市の大気汚染。
「霧のロンドン」というイメージは、おしゃれなものではなくて、このころのスモッグ、環境汚染のせいです。
さらに、イギリスの食事がまずい、というイメージがありますが、このころに「労働労働!」となった結果、自宅で手の込んだ料理や食事にこだわる習慣が希薄化し、料理の伝統や文化が損なわれたせいだ、という説があるようです。
またこういった背景の中で、起きたのが有名な「切り裂きジャック」事件です。
ご存じのかたもいるかと思いますが、都市化、工業化が進んだロンドンの貧困街、売春街で、娼婦が大量に残忍な方法で殺される殺人事件で、いまでも未解決となっています。
またこのような犯罪の多さや雰囲気を反映したのが「シャーロックホームズ」でした。こういう犯罪を解決するヒーローという側面があるのです。
もうひとつ、こういった状況を反映した作品として紹介すると「指輪物語:ロードオブザリング」「ホビットの冒険」などの作品です。実は作者のトールキンはバーミンガム出身で、悪役側のモデルが、過度に工業化が進んだバーミンガムの街でした。そして、悪役に「サウロンの目」というのがいるのですが、そのモデルがバーミンガム大学の時計台:町中から見える/逆に言えば町の人を一点から支配する「時計」という存在でした。逆に、主人公たちがのほほんと牧歌的にくらすホビットの村は、イギリスの理想的郊外/田舎をイメージしているそうです。興味がある方は映画を見直してください。工業化への批判するような描写に気が付くと思います。

 
 
さてこういう産業革命後の問題「課題先進国」っぷりは、今日の話に大切なことです。
少し時代はさかのぼりますが、産業革命後の過密で不衛生なロンドンの都市環境の中で、コレラが発生し、その原因を研究し、ある一つのポンプ/井戸に原因があると突き止め、ポンプの使用と停止しコレラの流行を解決に導いた医師がいました。これが世界ではじめて公衆衛生が学問として実施され実践された例とされています。
これは「イギリスが公衆衛生の先進国」というもうひとつの理由になっています。
 
さてここからが本題で、当然こういった問題へ立ち向かう社会的運動がでてきました。
今回は、いくつか紹介します。アートアンドクラフト運動、郊外への移動や田園都市という考え方、社会保障への動き、そして社会主義です。本当はこれらは同じ人物や団体がまたがって関わっていたりして厳密には区別できない面もあるのですが。
 

・アートアンドクラフト運動

アートアンドクラフト、というのは有名なものだとこういう作品があります。有名な人としてウィリアムモリスというデザイナーがいます。工場労働や分業、工業化の現場では、(いまでもそうですが)均一なものを安価に大量生産しています。その中では、人間が単純労働に従事し、巨大な製造ラインの一部となっています。こういう構造に対する批判です。
このような状態が「本来、なにかを生産したり仕事をするということは楽しさや喜び、充実感とつながるものであったはずなのに、分業化によってそれがなくなってしまっている。」と考え「人間性が疎外されている、のけ者にされている状態」と考えました。それに対抗するために、ただの芸術ではなくて、実用的なものや実用的な建築のなかに美しさや製造者の表現を反映する、分業の単純作業ではなくて最初から最後まで一体として仕事をする、職人性に価値をおく、参考とするものとして中世の教会建築や芸術を参考にする、というようなコンセプトがありました。
彼らのデザインはいまでも、日本でもとても人気がありますね。最近は100円ショップの商品デザインにも取り入れられているのは、なんだがもともととの矛盾を感じますが。
 

・社会保障などの整備

また社会保障などを求める運動も活発になりました。児童労働や労働時間規制、貧困に対する対策、上下水道の整備、労働者への教育、奴隷制度の廃止などはその一部です。
またロンドンのイーストエンド、さっき話した「切り裂きジャック」の現場では同時期に社会福祉活動が始まっています。貧困街の中に住み、いっしょに生活しながら生活を再建していく「セツルメント」という運動が始まり、これがいまの社会福祉:ソーシャルワークの発祥の地と言われています。
 

・郊外/田園への移住

さらに、不衛生で犯罪の多い都市部から離れて、郊外の自然豊かな土地に庭つきの一軒家をもつ、それが豊かな生活である。そういう理想像もこのころにできたものです。ピーターラビットの舞台である湖水地方などはいまでも風光明媚な場所としてイギリス人自身にも認識されていますし、仕事をリタイヤして郊外の一軒家で土いじりをして過ごす、というのは彼らの理想、人生のゴールでもあります。
こういう傾向は、どの国のひとでも多かれ少なかれありますが、無駄遣いや派手なことを好まず倹約や慈善事業を好むプロテスタントの国であるイギリスでは特に強く、
対照的に都市というのは堕落した退廃的な環境と捉える向きもあったらしいです。
その結果、イギリスといえば、ひとを自宅へ招いたり「アフタヌーンティー」をしたり、美しいイングリッシュガーデンを作る。そういう内向きなプライベートの空間を充実させる方向に文化が発展しました。
これは、スペイン,イタリア、フランスのカトリック教会の装飾や、教会の前でひとが集って市場をする習慣や、着飾って舞台芸術を楽しんだりするような、公共の空間や交流を充実させる方向性とは対照的です。
 

・田園都市

これらの、人間性を重視した労働、福祉や教育を大切にすること、快適で堕落していない郊外での生活を併せ持ったのが「田園都市」という考え方です。日本では渋沢栄一がおこした田園調布が有名ですが、これもイギリスが発祥のひとつです。
 
僕の住んでいたバーミンガムには、国際的なチョコレート会社の工場がありました。日本では滅多にみかけないメーカーですが、海外にでたらどの国でも、スーパーからガソリンスタンドのレジ脇まで並んでいる超有名メーカーで、キャドバリーといいます。実は、ここが「チャーリーとチョコレート工場」のモデルになった工場です。

 
ここは工場なのですが、さっき言った様々な思想的な動きを重ね合うように実践していたところで、まずバーミンガムの郊外にあります。そもそもチョコレートに目をつけたのは、アルコールに替わるより健康的な嗜好品を普及させようという意図でした。工場を郊外に建てるだけではなくて、環境のよい従業員向けの住宅を周辺に開発し、都市計画も行っています。従業員には無料ないし安価で歯科検診や治療、医療が提供されます。さらに子供が働く場合には、一日のうちの労働時間を制限し、一部の時間はかならず教育に充てられます。労働者の健康管理や啓発も行います。労働者でも優秀なひとは、男女問わず管理職に引き上げていました。これらは、いまとなってはある程度当たり前のこともありますが、当時としては相当に先進的なことでした。
ちなみに、いまではこの工場周辺はバーミンガムの高級住宅街となっており、現在でもこの地区はアルコール類の販売や提供が禁止されています。
このような理想を掲げる経営者や発言力のある人々が政治家や議員などになったりして、イギリスでは徐々に社会保障制度や労働法などが整備されていきました。
また彼らの中から、社会主義という思想が芽生え、彼らはのちに「空想的社会主義」と批判されるのですが、マルクス・エンゲルスの共産主義という思想へとつながっていく面があります。
 
このようにして、イギリスは現代でも、歴史という意味でも実践という意味でも学問という意味でも公衆衛生の先進的な国であると認識されています。
 

④   これらの動きの問題点

しかし、これらの運動や思想には問題点もありました。
例えば、ウィリアムモリスらアートアンドクラフト運動の人たちが作った壁紙や製品などは、高価で一般のひと、ましてや貧困層が帰るものではなく、ただただ貴族や恵まれた人がより恵まれるだけになりました。
さらに、都市の公共の場でのひととの交流を避け、郊外に住み自宅のなかのプライベート空間を充実させてそこで社交を行う形式はアメリカに伝わり、自動車社会/モータライゼーションと合体します。アメリカ映画でみるような「一軒家、庭付き、車もち、勤勉な夫、良妻賢母で専業主婦の妻、よい子供たち」という形と、車を前提として町がどんどん広がっていく「車社会」の遠い原因となっています。
結果的に、ロードサイド店が発達し、人々の小さな有機的な交流が乏しくなり、健康もウェルビーイングも損なわれる…という形になっています。
いってみれば町や都市、生活から「人間性がのけ者にされた」状態です
なにをいっているかわかりますね?それが日本、特に日本の地方都市へアメリカを介して戦後に輸出された町の形です
 

⑤   ヨーロッパ、イギリスから学ぶ点

当然、こういった問題点はイギリスでも認識されて対応されていますし、フランスやイタリア、スペインなどカトリック国では「広場で交流する文化」残って、活かされています。
これは都市計画の話だけではなく、どういう町にしていきたいか?どのような生活をしていきたいか?という「設計思想」の話です。
なぜここまで思想や歴史の話をしてきたか、というとこれからの「設計思想」を考えるときに過去に考えられてきたことが参考になると考えたからです。
つまり、これから僕たちは、日本型/安房バージョンの「アートアンドクラフト運動」、しかも恵まれない人たちも参加できる/排除されない「改良版」を作っていくことが大切で、
それはもともとのアートアンドクラフト運動と同様で、「人間、人間性を大切にする」というところがやはりポイントになると思うのです。
人間を大切にするからこそ、いわゆる健康も大切にするし、それだけではなくて幸福や充実感などウェルビーイングも大切されるわけです。
何点かイギリスやヨーロッパの街、生活から参考になる点、真似してみたい点を挙げます。
 

・健康と政治/政策の連携

ひとつ目は、主に狭い意味での「健康」、つまり寿命を延ばすとか病気にならない、という意味ですが、そういう健康と政治の連携です。例えば、アルコール企業は青少年のみるスポーツ大会では広告を出せない、とか、ソフトドリンクの砂糖の量に対して税金をかける、とか。最近だと○○年生まれ以降の人には一切タバコを販売しない、という新しい法律ができました。これによって一世代の間に喫煙者が一切いなくなる予定です。さらにファストフードのTVCMも子供が起きている21時頃までは禁止となりそうです。
 

・住民参加

またこのような健康や医療に関係して面白いのは、医療の質などに住民が参加することが促されている点でした。
例えば、イギリスの病院は税金で運用されているのですが、それを監視し評価する期間が別にあり、積極的に患者や地域住民の意見をとりにいっていました。投書や書き込みを待つだけではありません。
 

地域コミュニティ

昨今日本で話題になっているものとしては地域コミュニティなどの意図的な活用です。例えばなにか体調不良で病院にかかった人がいたとき、実はそれが孤独やさみしさ、孤立したことによる生活の管理の限界によるものであったりすることがあります。そういう人を、地域にある集まりを紹介してそこに参加してもらうことで問題解決を図るということです。このときに、地域にある様々な集まりを把握して、それぞれのひとの最適なところの架け橋となるリンクワーカーという役割のひとがいて、医療/介護/福祉/行政と地域コミュニティのつなぎ役となっています。
日本、特に安房でいうと、自治会や町内会、青年会、民生委員、祭りなどをイメージするとよいかもしれません。こういう昔からある地元のひと同士のつながりを「地縁型コミュニティ」といいます。ただしこういった集団はもちろん重要なのですが、弱点もあります。入りにくい、と感じるひとがいます。例えば、移住者、若者。飲み会などの交流が苦手だと感じる人。なにかしらの障害をもつひと。特定技能実習生などの外国人。そのような方々です(マージナル:辺縁的な存在)
そして、このようなひとにとっては、地縁型コミュニティだけでは不足していて、孤立してしまうことがあります。
このときに、大事になってくるのが「テーマ型コミュニティ」です。例えば、ここ。自由に本を読むことができる。静かに本を読むこともできるし、そこにいるひととほんの一言二言話をすることもできる。ほかにも絵画教室とかなにかそのような「テーマ」をもってつながることができることができる場です。
このような場は、市民の活動でどんどんつくることができるし、いろんな方法が考えられます。
イギリスでは、公民館のような施設やNPOの活動として、このようなテーマ型コミュニティを培い維持することに力を入れていて、それが地域のひとの健康やウェルビーイングを高めることにつながっていそうでした。
 

・目的がなくてもただ居られる場所:人が優先された場所

さらに住んでいる人間のウェルビーイングを高めるものとして、「ただ居られる場所」がある点も挙げられます。
自動車がはいらない町の中心部にあるベンチ、そういう広場に面したカフェスペース。
さっき地縁型コミュニティの限界点は指摘しましたが、テーマ型コミュニティも限界があり、「そもそもテーマに興味がないひとは参加できない、したくない」「そこに参加するにはテーマに対する若干の熱量が必要」という課題があります。
そうでないようなひとがただ居られる場所が必要です。例えば、家族と喧嘩してただ家の外で時間を過ごしたいひとは、どこへ行けばいいのでしょう。仕事や子育ての合間でふっと息をついてリフレッシュしたいひとのための場所はどこにあるのでしょう。
そういうときに佇むことができる、ただ居られる場所。最近東京にはベンチがない、ということが話題になったりしていますが、地縁もテーマへの熱量も必要なくただいられる、それでいて社会に属している感覚が得られる、孤独ではない場所というのが必要です。
そのための場所が、イギリスやヨーロッパでは、教会前の広場や市場、そう言った場所にあるオープンカフェやベンチだったりします。
ただ佇んだり、音楽を演奏したり、その周りで踊ったり、市場で買い物をしたり、みんないろんなことをしたり、しなかったりして過ごしています。
当然そこでゆっくり息をつけるには、騒々しく危険な自動車が通らない、歩行者が優先される、つまり「生活する人間ひとりひとり」が大切にされる空間である必要があります。

 
 
 
 

・寛容さ:潔癖症にならない!

このような「ただいられる」というのはだれにとっても大切です。そして特にイギリスはそれが許される文化がありました。
具体的には「健常な成人ではない存在が公共空間に存在すること、それによる(良くも悪くも)乱れを受け入れること」ができていました。
車いすの方へのバリアフリーはもちろん、子どもがバス車内でどんなに騒いでいても怒るひとはいませんでした。むしろひとによっては一緒に遊びだします。大きな2人乗りのベビーカーが載ってきてもいやな顔はせず、むしろ手伝ったり子供の相手をしたり親に話しかけたりします。さらに、犬や動物に対しても寛容です。犬は人間1人に対して2頭までバス、電車にそのまま乗車可能です。料金はかかりません。みんな犬が大好きで、よそのひとまで構っています。
ちなみに、イギリスでは蜂が愛されていて、特にマルハナバチという蜂が大切にされています。そのため、街の本屋などにいくとこういう蜂が冬を越すためのグッズや、蜂が水を飲む場所、蜂の栄養補給のための蜜などが売られています。
子どもや障碍者と動物をいっしょにするな!という方もいると思いますが、
これが「健常な成人以外の存在が社会に属していることを受け入れている空気」だと思いましたし、それがあるからこそみんながそのまま存在することが肯定されることにつながるのだな、と感じました。
 
こういった寛容さは、日本は多少見習う点があると感じています。
日本、特に地方では同一性の高い集団で生活している影響もあり、時間やクリーンさ、清潔さなどに「潔癖症」的ですらあり、乱れや「普通ではないこと」に対する拒絶反応がみられることがあるようです。
例えば、電車が数分どころか10-15分遅れたところで、多くの場合大して困ったことはないでしょう。

 
 
 

・死と苦しみを共感するコミュニティ、老いにフレンドリーな社会、暖かく受け入れるスペース

健康であることや幸福であること、ではなくて、「ただそのまま」が肯定されるというのはウェルビーイングという視点でも重要なことです。
そのような試みとして、コンパッション都市、エイジングフレンドリー社会、ウォームスペースがあります。
コンパッション都市、共感する街とは「死やなにかを失うという体験を、互いに共感しあう街」と作ることで、
幸せを増やすというよりも、「不幸せの程度をできるだけ緩和する」まちになろう、というコンセプトです。
 
ひとは生きていれば、いろいろなことを経験します。家族の死、犬や猫など大切なペットの死、年ととって昔できたことができなくなること、急な病気やケガでやりたかったことを諦めなくてはならなくなること、そして自分の死。もっと身近でも誰かとの別れや失恋など。
そして、それ自体ではなくても、将来の自分の死や家族の死などを想像して、不安に思うこと。
死ぬこと、病気になること、老いること、そして生きていること自体が常にこのような「死」や「喪失」と隣り合わせです。
しかし、いまはそのようなことを日常的に感じたり、考えることは少ないのではないでしょうか?
だからこそ、いざというときに戸惑い、悩み、苦しむし、
どこの誰に相談したらよいのか?がわからなくて苦しんでしまうのではないでしょうか。
これを少しでも和らげるための方法のひとつがコンパッション都市です。
この概念については、昨年も話しましたが、実際にイギリスで行われていた例を一つ紹介します。コロナ禍で亡くなった方を悼む日のイベントです。ある慈善団体が中心となって、国を挙げてある日にコロナ禍を通じて亡くなった方々を偲ぶ。自宅で偲んでもいいし、公民館のイベントに参加してもよい。短冊に思いを書いて、コミュニティセンターのポスターに貼ってもよい。動画や写真をインスタグラムにアップロードしたりしてもよい。詩を書いてもよい。個人でやっても、共有してもよい。でも同じ日にみんなでやることで、それが共有されるし、同じ思いや苦しさを抱えているひとがいることを知られる。そういうイベントでした。
日本でいえば、終戦記念日やなにか災害の日などに似ているように感じましたが、式典というよりもそれぞれの参加者のためのイベントという位置づけが強いように感じました。
これは死や喪失という究極的に苦しいこと、ある意味で健康でもあり健康から対局でもあることをそのまま受け入れて共有するという営みだな、と思います。
 
それに近い概念として「エイジングフレンドリー社会」というのがあります。
日本語でいうと「年老いていくことに優しい社会」というかんじでしょうか。
これは、市の部局に加え、街の住宅やまちづくり団体、交通関係団体や文化施設などが協力して「高齢者が安心して歳をとり、楽しく生き生きと暮らせる都市づくり」をすすめる活動です。
重要な項目として、屋外スペースや住居、交通機関、社会参加など8つの項目があげられています。
具体例をみてみましょう。イギリスのマンチェスター市では、8つの基準をもとに「高齢者が生き生きと暮らせる街か?」を市の施策で再検討しました。広く、街はずれの大きな家から、交通のよいこじんまりした家に転居を促す支援などが行われています。
しかし、面白いのは、このような市の取組自体はそれほど規模の大きいものではないことです。実際には、ボランティアや自発的な活動が普及したことが面白い点です。
認知症患者を対象としたカフェや高齢者が講師となる地域の歴史講座などのボランティアの取組、映画館が遠くて見れなくなったという地域の高齢者の声から、新しい作品から古いものまで毎週映画上映会を行うクラブ活動など社会参加の機会を増やしています。
さらに面白いのは「Take a Seat」「座ってください」キャンペーンです。長い距離を歩けない高齢者のために、各店舗が道路沿いの椅子を用意して設置し「Take a Seat」ステッカーをはって、自由に座って休憩してもらう、とか。
店舗によっては「We are Age Friendly」というステッカーをはって、このような店は何も買わなくても高齢者が少し休憩したり、店員とおしゃべりをしたり、トイレを借りたりできるようになっていたりすること、とか。こういうage friendlyのお店は実際にみかけることがありました。
さらに、美術館などに行けない施設入所者の方のために、地元の美術館や博物館が展示品を箱にいれて、巡回美術館のような形でみせて解説をしたり、それを鑑賞しながら、コーヒーとケーキを楽しむ時間をとるといった活動をしています。
 
 
もうひとつ似たものとしては、Warm Spaceという取組です。
イギリスは冬が長く寒いです。僕が住んでいたバーミンガムは樺太と同じ緯度です。しかし、光熱費の高騰が社会問題となっています。その結果、貧困層などは生活が厳しくなっています。
これに対して、役所や図書館、カフェ、公民館や教会などが一部空間を開放し、そこで暖をとれるようにするという取組です。そこでは座ってくつろげるだけではなくて、暖かい飲み物がもらえたり、その場の毛布を課してもらえたりします。また場所によっては、ソーシャルワーカーや役所の福祉担当者がそこに窓口をもって、家計相談や福祉利用の相談にのる、というのを併設していたりします。
 

⑥   日本との背景の違い

ここまでイギリスやヨーロッパのよかったところ、こんなところを参考にしたいな、ということを紹介してきました。しかし、当然ですが日本とイギリスやヨーロッパとは異なります。
例えば、「広場」の話を繰り返ししてきました。しかし、それは日本だとあまり想像しにくくありませんか?江戸時代や昔を思い浮かべてもあまり広場に人が集まっているのってイメージできません。
個人的には、日本は「参道」「街道」「城下町」の文化なのだと思っています。広場があるのは、ヨーロッパのキリスト教会が前提になっています。日本の場合、お寺や神社への参道沿いの賑わい、城までまっすぐに伸びる道とその周辺の賑わい、街道沿いやその宿場での賑わいです。
「自動車を減らし人間を大切にすること」は共通するとしても、そういう場所をまちのどこに、どのように設置するかは欧米と日本とでは異なるように思います。
 
また気候や地理というのは大きく影響するようにかんじます。
例えば、どちらかというと日が短く寒い時期の長い北ヨーロッパでは、外で食事をして日にあたることを本当に大切に思っています。一方、日照が長く夏暑い日本にそのまま当てはめることはできません。
これは虫や植物、動物を愛でる文化とも関連していて、日本のようにどんどん草木が繁る国と、寒冷な国とでは感覚が全く異なるのかもしれません。また環境問題や気候変動、温暖化に対する意識や課題感にも差がでるようです。
 

・ウェルビーイングやコンパッションへの捉え方

さらにウェルビーイングという言葉の捉え方も若干異なるかもしれません。大学院で勉強しているとこれに関連して「ハッピーさ」が紹介されるのですが、仏教的感覚から考えるとハッピーさがそのまま幸福さ「よくあること:well being」と一致するとは素直に考えられません。さらに測定可能なものとして研究する研究者もいるのですが、なおさらそれも納得できない感覚があります。単純なハッピーさならまだしも、「よく在ること」はハッピーさの多さで測るよりも複雑な在り方だと感じるからです。この点は、ヨーロッパの議論を日本に持ち込むときに注意が必要な点であるように感じました。
またさっき紹介したコンパッション都市という考え方も、強烈にキリスト教の影響を受けています。そもそもコンパッションの重要性を説いたのがイエス・キリストでした。コンパッション都市という考え方は考え方として大切にしつつも、それを日本において考えていくときには、日本の状況をよく踏まえることが大切だと思っています。
つまり、当然コンパクトということは、地域の死生観や家族観と強く結びつくと思います。その点、安房にはもともと素晴らしい風習があり、潜在能力があると思います。
古い大きな家に訪問診療に行くと、その家のご先祖様たちの肖像画や写真がずらっと居間の壁のうえのほうに取り囲むように飾ってあることがあります。
あのような、亡くなったご先祖様たちと、年老いていく自分、そして未来の子供たちが連続的にいるんだ、と感じる日常空間というのは、この死や喪失のダメージを減らす重要な方法としてありうるのではないか、と感じています。
安房地域でどのようなことができるかを考えていくことは、日本の、広く言えば東アジアでのコンパッション都市という実践のモデルとなるかもしれません。
このように、イギリスやヨーロッパと日本とでは前提となる文化的、歴史的、地理的な文脈や背景が異なるのでそのままマネすることはできないし、それをきちんと「翻訳」することが大切なのだと考えています。
 

⑦   個々人ができること

健康のため
・「みんなの健康」や「医療・介護・福祉」のための情報を共有する媒体
・病院/医療と地域住民との接点を増やすこと。イベントごとから日常に。
・歩行者が大切にされる街
→一か所でも自動車フリー区間/自動車フリーデイ
 
ウェルビーイングのため
・テーマ型コミュニティ(テーマ様々、マイノリティの方もはいれるような)
・歩いて回って、みてまわって楽しい街:人が交流する街/歩行者の速度の街
→オープンスペースやオープンカフェ、歩行者天国の区間や日など
 
ただいること/老いることが肯定されるため
・死や喪失が身近なひとや真剣に考えたいひとが思いを共有する機会
・死や喪失が身近ではないひとが深刻にならずに自分ごととして考えるきっかけになる機会
→一部は専門的なケア、ピアサポート、死生学カフェや哲学対話、詩や写真、遺影の撮影会やお棺体験、関係者のパネルディスカッションなどのイベント
・オープンスペースやそこにあるベンチ、そこに面したカフェスペースなどの設置。歩行者や高齢者、子供連れが少し休んだりできるベンチや、そのような方を「ウェルカムだよ!」という町全体での意思表示
 

⑧    最後に

今日は主にイギリスを中心にヨーロッパの街の雰囲気や取組などを紹介しました。それぞれがばらばらにみえるかもしれませんが、最後にもう一度強調します
健康でいられるまち、幸福でウェルビーイングでいられるまち、人がそのままで生活する/生きて老いて死んでいくことができるまち。そんな街をつくるためには「そこに生活するひとりひとりの人間を大切にする」という思想が重要です。
そしてそれを実践することはただ健康やウェルビーイングにつながるだけではなくて、結果的には
歩行者が大切にされることで駅前の中小店舗の活性化や地元経済の活性化につながります。この場所はどんなによくても車できているひとは気が付きません。
くつろげる広場や街並みは観光客を誘致することへもつながります。
自動車から歩行者へ、自動車からバスなどへの公共交通へ移行することで環境へ配慮したまちにもなります。
歩ける街は、高齢者や観光客だけではなく子供や子供連れにも優しい街になります。
つまり、なにかとなにかが対立するのではなくて、「生活する人間を大切にする」ことで、いろんなことが重なり合うように良い街になっていくのです。
 
いまは、日本も安房も、高齢化して、人口も減り、経済も悪く、医療や社会保障も政治も、なんだか先が暗いように思うかもしれませんし、そんな明るい未来をイメージできないかもしれません。
しかし、ヨーロッパの国は、日本で感じているよりも一つ一つ小さな国です。
面積も狭い。人口も少ない。
大きいと思っている街も、日本の大都市と比較したら大したことはありません。
有名な話ですがパリは山手線の内側程度のサイズです。
イングランド第二の都市のマンチェスターやバーミンガムは、せいぜいどこか地方の県庁所在地クラスです。
札幌や仙台を超えるような街はほとんどありません。
人口5-20万程度の街が、活気を保ち、古い伝統文化を大事にし、それなりに平和に幸せに暮らしている。
そういう小さな町や、小さな国がちゃんとやっていけていることをみれば、
日本で多少人口が減り、経済規模が縮小することはそれほど怖くなくなります。ヨーロッパの地方都市の取組や現状は参考になることが多いですし、勇気づけられると思います。
そう思えば、館山市だけでも4万人、安房あわせれば10万人弱?いることを考えれば、まだまだやっていけることはたくさんあるはずですし、できると僕は思っています。
そしてそのときに、小さくても豊かな街や地域になっていくために大事なのは、今まで通りの「ミニ東京」を目指す地方創生とか「自動車社会」「大量消費社会の下請け」ではなくて、「生活しているひと一人一人の人間性を大切にするまちづくり」なのです。
 
今日の話がきっかけになって、地縁型に加えてテーマ型コミュニティが活発になったら幸いです。また歩行者に優しい街、ただの居場所がある街、死や苦しみについて共有する街。ぜひやっていきましょう

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