見出し画像

notte stellata:絶望と希望の両方を

「災厄の絵画史」という一冊を先日読んでいた。
その本の序章にはこんな一文が添えられていた。

パンデミック、飢餓、天変地異、戦争……
古来、人類は災厄と戦ってきた。
画家はそれを連綿と描き続けてきた。
人々は災厄に対してどう行動し、
どんな敗れ方をし、どうやって乗り越えたか。
あらゆる芸術がそうであるように、
そこには人間の本質を捉えようとする真摯な試みが見られる。

「災厄の絵画史」中野京子 https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00268/

notte stellataは、一言で言ってしまえば上記の「画家」を「フィギュアスケーター」に置き換えた、そんなショーだったように今感じている。

2023年3月11日、明け方に北海道地方では震度4を観測する地震があった。
12年前の同じ日と、5年前の胆振東部の地震。朝から色々な事を思い起こさせる。
そんな地震も空港へのアクセスを遮るものにはならず、3月に入って気温が高い日が続いている道央圏では雪解けも進んで高速バスもスムーズに新千歳空港へ到着する。

空港は海外からの観光客はともかくとして、国内ロビーはすっかり以前の賑わいを取り戻していた。空港限定商品に長蛇の列が出来ている。2021年の秋に訪れた時は人も少なくお店も閉まっているところが大半だったことを思うと、ようやくここまで戻ってきたんだなと、観光分野の仕事にかかわることもある自分は少しの安堵。
疫病をきっかけにたくさんの命と生活が奪われた。自然災害ではないけれど、紛うことなきひとつの災厄は今まだ終わっていない。

宮城県沖の海上には僅かな白波を認めるだけで、空の色を映した穏やかで複雑な深い青。
3月の柔らかな日差しが降り注いでいた。

仙台空港に到着して駅まで進もうとすると、慰霊式典の様子が目に入ってきた。
一輪の白い菊を代わる代わる捧げる人達と、鳴り響く鐘の音。
追悼の風景と、空港から移動していく、私を含めた日常を営む人達が交錯する。これからの旅に思いを馳せて談笑する人達。スマートフォンを眺める人達。車窓遠くには12年前の同じ日にテレビで繰り返し見た立ち並ぶ松の木。

仙台駅で献花のための花を買い求める。自分と同じデニムのバッグの女性たちも花を見定めている。仙台から利府へ。

開場までまだ1時間以上ある頃、16時開演のショーに向けてもう人が大勢集まっていて、飲食やグッズ売店にたくさんの人が列を作っていた。利府のマスコットキャラクターが愛想を振りまく。笑顔の集まる華やかなイベントと、半旗と献花台が共存する会場。
献花台の設置された会場には途切れず人が訪れていて、用意された花を手向ける人、手を合わせる人、場内に流れていた映像を見入る人、そこだけは外の空気と違っていた。

14時46分、歩いていた人達も皆足を止め、サイレンの音に合わせて黙祷。
止まっていた歩みを再び進める。
会場の隣では地元高校の陸上部が練習をしている。
犬の散歩に出ている人の姿もあった。
祭りと日常の混在。


会場では、隣の席に言葉の雰囲気からして地元と思しき高齢女性の二人連れ。70代前後だろうか。普段アイスショーを見慣れいる、というわけではなさそうだった。隣なので聞こうとしなくても会話が聞こえる。
「結弦くんは(地元の人間にとって)孫か息子みたいなもんだよね」なんて話をしていることも。

この日のショーは2日目の公演だったけど、他の誰かの感想に少しでも左右されたくなくて、まっ更な気持ちで見てみたくて、演目以外の情報を取り入れずに臨んだ。だからショーの最初からnotte stellataで始まった時には素直に驚いた。このプログラムで幕開けだったのかと。

足元に「あの日の星空」を想起させるようなプロジェクションマッピング。否、羽生が白鳥を演じるならばそれは足元ではなくて星空、私達観客が見下ろす星空。柔らかに、正確に、流れるように動いていく肢体。

ショーに参加したスケーターの数は多くないけれど、代わる代わる登場した個々の、プロとしての行き届いた丁寧な演技が光る。この日に、この場所で演技をするという意思が伝わる。その丁寧な空気をいい意味で転換させたのは、1部最後に演じられた羽生結弦と内村航平のコラボプログラムだった。

フィギュアスケートと体操のコラボレーションと言われても、何しろ誰もそんなものを見たことがない。一体どんなものになるのか----場内の観客の集中は一瞬にして圧倒に変わる。羽生が先程見せていた「柔らかに、正確に、流れるよう」な美しさを内村もまた持っている。違う競技なのに同じ質の美しさと強さの共演。王者としての自負と技術力を否応なく見せつける。
自然への無力さに苛まされた場所で、それでもなお、人間にできることの可能性を求め示唆する。人間の弱さを知った場所で、人間の強さを知る。

隣のばあちゃn…高齢女性達もこれには大興奮で、爆発するような場内一斉のスタンディングオベーションにもちろん加わり「キャー!」「さいっこう!!!」「もう一回やって~!!!」


第2部は先程の興奮を更に上げるようなグループナンバーfeat.プロジェクションマッピング羽生のDynamiteで始まる。場内はもちろん大盛りあがりだ。しかしこれを過ぎると、隣の女性たちはすこし飽きが来たようでなにかと結弦くん見たい~と話し出す。思ったことを黙ってられないお年頃なのだ。いずれ私もそうなる。ような気がする。

しかし周囲に惑わされず集中して見る。一人ひとりどう、というよりショー全体を通しての個々のパフォーマンスの方向性の統一感が心地よかった。本質的な部分で、この場所でこのショーで滑るということがどういう意味を持つか、よく心得た上で明るく、切なく、それぞれの心を贈っているようだった。

内村の二度目の演技で場内が沸いたあと、最後の演目が羽生によって始まる。
春よ、来い。

儚く優しく慈しむような春は、いつか激しい慟哭に変わる。
鎮魂、という一言で収められない。

ここまで何度も祈りを捧げてきたはずだ。
何度も願ったはずだ。
何度も伝えたはずだ。
それでも伝えきれない。
尽くしても尽くしきれない。
捧げても戻ってこない。
戻ってこないとわかっていても祈り続けることをやめない。
その身を献して、すべてのひとのためのように、誰のためでもないように、ただ、魂がそう命じているから。そう欲しているから。

彼の目の先に12年前の星空が見えたような気がした。

ショーの終わり、アンコールと周回のあとにマイクを持って話し始めた。
周回を手拍子で送っていた場内は、立ったまま彼の話に耳を傾けた。

「ここは遺体安置所だったんです」

そう話した時、ここまで散々楽しく好きな事を話して見ていた隣の女性達が「そうだよ」って呟いた声の強さ。強く頷いていた反対隣の人の横顔。

おそらくはだれもが楽しくショーの時間を過ごしていた。でもそのとき、隠していた感情の蓋が開けられたように空気が引き締まる。

会場にはたくさんの人が集まっていた。その全員が、誰しも日々様々な思いと背景を抱いて生きている。生きられなかった人達の無念を思う人。生き残った痛みを抱える人。なんの被害もないけれど、何も出来なかったことに無力さを覚えた人は私だけではないだろう。

今は笑っているけどずっと笑い続けて来られたわけじゃない。今は泣いているけれどずっと泣き続けていたいわけじゃない。
毎日揺れる感情の中で、ただ今、笑える時間を大切にしたり、大切に出来なかったり、泣いてる自分を否定しなかったり、否定したくなったり、やりきれなかったり、怒ったり、憤ったり、それを表に出したり出さなかったり、書きつくせないほどの感情と思いがある。そのどれをも否定しない。自分の中にある澱みを許容し開放する。澱の底の底にあるのは希望なのだと。


この日のショーはそんな、絶望と希望の両方を垣間見る思いがした。
それは冒頭に引用した、「人間の本質を捉えようとする真摯な試み」を彼等のパフォーマンスに見いだしたから、なのかもしれなくて。


ショーが終わってアリーナの外に出る。
「星が見えないね」と、隣を歩く人達が話してた。
薄雲がかかって見えにくいのかな。と思ったら星が見えた。
星はアリーナの真上に、あった。
帰路につく私達を、ショーを終えたスケーター達を見守るように、そこに。

利府駅に戻るとそこでも小さなイベントが開かれていた。
20人くらいの人達が集まってライブに耳を傾けていた。
ギターを掻き鳴らして力強く歌ってる。
外にはキャンドルが並んでる。
こどもたちの手書きのキャンドルに描かれたたくさんの希望。

12年前のこの日には失っていた光、3年前に閉ざされた声と距離。
今日この日はそのどちらも取り戻していた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?