女体盛りにおける、汚さの基準としての主客
おはようございます。
女体盛りって結構死んだ概念なんじゃない?って思ったこの頃なんですけど、それってかなり勿体無いよなっていうところもあって。性欲と食欲を同時に満たすと言う方向性は食べ物に対する冒涜かはともかく、腹も膨れて性欲も解消できる、その万能さを有してどうしてそんな終わってる現状なんでしょう、、、(私が疎くて表面世界に出てこないマイナー風俗のことを存じ上げないだけだとは思うが)性的コンテンツが一般的には受け入れ難い、万人受けしないものであることは前提としても女体盛りへの一般的反応として「きたない」「不潔」「美味しくなさそう」となってくるのは、性的コンテンツの垣根を超えた問題となってくるだろう。この三つの反応について考えていくこととしよう。「きたない」ことと「不潔」であることは殆ど似たものとして扱われることも多いがここでは、主観的なものがきたなさ、客観的なものが不潔さとでもしておく。客観的なものとして不潔さは知覚できるものとして、あるいは数値だったりといったもので表すことができる。女体に付いた雑菌とただの皿のそれは、比べるまでも無いことだろう。この点について主観的なもの、「きたなさ」について考えてみる。きたなさっていうのは単に汚い〜って直感的に感じた衝動によるものであり客観的な不潔さとは明確に区別できる、「女体に付いた雑菌」という不潔さの体現も実際のところは計測するまで分からないのだから主観的なものに基き女体盛りを見つめていることとなる。計測データを片手に持っているなら別だが。まあ一般的に汚いと思ったものは計測してもそうであることは皆さんの経験則でわかる事だろう。潔癖症という概念が蔑視的にあることも、一般的なものとして主観と客観での汚さの対応が大概一致することを逆説的に示しているだろう。ここから先は便宜上主客での汚さ、不潔さが一致するものとして進めていくこととする。残りの反応として、「美味しくなさそう」というのがある。これは、どういう目線かにもよるだろう。俗に「オカズ」なんていうならば、エロいものは美味しいと言ってもいいんじゃないか。まあそうすると抜く行為が食べるという羽目になってカニバリズム感が否めないのだが。言葉にはせずとも存在する魅力としては美味しそうか、エロいかどうかはさして違いはないだろう。まあ汚くてもエロいものはエロいんじゃないか。というよりも食としての見た目の違和感が、食べ物で遊んでる感がいけないのかもしれない。時間がないのでまた。