精神のなさ
運慶の作で、仏像が鬼を踏みつけているコミカルな作品があって、みていて面白かったのをよく覚えている。
踏みつけられている鬼はこの世界の全てで、踏みつけているのは人間精神のようなもので、物質的なものを支配する精神の優位性を具えている。この二人の睨み合いのないところには精神は存在しない。人間と自然が対峙して人間を含む自然を踏みつけていない限りそこに精神というものはない。
絵を描いていて、自分が今何をしているか分別しているときはインテリジェンスでいいけれど、その分別を超えてしまう行動をする時は物質が有利になって恐ろしくなる。これは精神のなさを怖がっているのだ。踏みつけて支配していない状態がカオスだと思っている。だから日本人には自然を支配すると言う考えはないというのは当たらないと思う。人間全体の問題でありテーマであるから、鎌倉時代、運慶はそれと向き合い乗り越えようとする姿勢を見せたのだろう。
絵を描いていて、自分の分別から逃れるために、子供のように分別のないことをすることがある、絵にある精神をなくし荒野に出るために。
対立のないところに精神はない。見るだけ。見るために精神を失う、こういったことはヨーロッパ絵画史の特に近現代の作品に、もっと昔は描く技術の中に頻繁にみられるものだ。僕もやはり絵画芸術で精神の無さを目指しているし、そういった作品に出会うと感激する。