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夕となりまた朝となった
描こうと思ったままに、見ているままに何で描けないのか、何で手を動かさないと描き出すことができないのか、見ただけでパッと絵にならないのか、こういうことをデジタルはすべて解決してしまうのだろう。
盲のように壁をさわり、目のないもののように手探りし、昼間でも闇のうちにあるかのようにつまずいた
未だ真っ白な紙に最初の一筆を描き出す時に思うことは
自分たちは皆んな、この白昼にもかかわらず、闇の中にいるということ
ぼくらにとってこの白は黒だということ
描いていくと生きた感じがあるのは、次第に明るくなっていくからで
ひと筆ひと筆、マッチを擦っているような感覚がずっと昔からあって、またすぐ火が消えるから、今度はもっと強くマッチを擦って、遂には世界が充分明るく見えるようになる。
明るくなった世界を見ると手が止まる、次の一手はこの明るい世界を壊してしまう可能性があって、いや、必ず壊してしまうと直観する。けれどもその一手、そのマッチの火は、以前とは比べ物にならないほど大きな火だ。この明るい世界を焼き尽くしてしまう程の火だと直観している。
見えた後見えなくなるのは、具体的な自分自身に目が向くからだ。実はここからが作品の領域になると思っている。真に暗い中での一手一手は偉大な一歩一歩だろう。
最初の描く前の白い闇とは違う具体性のある闇。とある聖人はこれを“暗夜”と呼んでいた。
自分がこれほど真っ暗で虚ろなのが具体的にわかり、何も言えなくなる。
作品のプロセスで言うなら、そこからが自分にとって有意義なことになるのだけど、人に伝えるためにその山から降りてきたのがモーセで、仏教的に言うなら開山と衆生済度になる。
最初には絵を描いて生きている感じがしたのが、後には死んでいる感じがすることになる。
目が開いて閉じる。
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