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ささいなこと展 5/7-18 2024
この度の個展のタイトルの意として2つの文を記しておきたいと思います。
(5月に開催する個展について、趣旨と言いましょうか、僕の絵画制作を通しての思考の内容を簡単にまとめておきました。絵のほうに意味ある可弱い言葉がどうしても存じますので、展覧会でこのようなことを明記したりお話しするつもりはないのですが、全体の方向性として一応note に記載しておきます)
ささいなこと -inconsiderable thing-
ひとつのことですべてのことが芋づる式にどうでもよくなることを僕は悪いことだとは思わない。むしろそれは、それら些細なことをひとっ飛びに超える魂の健やかさだと捉えている。そのような時にいつも下記の言葉が心に強く思い出される。
汝ら断食する時、偽善者のごとく悲壮な面持ちをするな
この時、その些細なこととは自分が大切に思っているこの世の全て。
万物は己に似るものに等しいものに対し、執着と愛を持つ。
善き人は己の中に神がいまさず、父なる神が己の中に働き給わず、厭うべき被造物のみ依然として自己の中に生き働くことを認めざるを得ないとき、心の底から神の御前に、また自己自身の前に恥いるべきである。
善き人なるものは、禍害や苦悩を決して嘆くはずはなく、むしろただ己の中にそのような嘆きの声を、悩みの声を見出すことのみ嘆くはずである。
またしても、些細な事物を犯すところとなり、些細な物事によって苦悩に陥れられるような人は、どうして己が天上的な人間であり、己の心が天上に生きると壮語しえようか?
メランコリア
メランコリーを日本語で憂鬱と云われますが、これを僕は大悲と云いたい。大悲あるところに大智といって、またドイツではメランコリーは芸術の友と言います。虚しくて何もする気のしない時こそ何かをするには良い時だということで、内面に沈潜しているときに、外部に展開打通し、外部を内部へ導入封鎖することを表現というからで、心が虚しくないとできないことであって、こういう意味でメランコリーは芸術の友なんです。
満たされるために残りなく注ぎ出せ!愛することを学ぶために、愛しないことを学べ!連れ戻されるために、離れされ!
ここに精神的リアリティーを、総じてメランコリーということを軸に挙げたこれらの事は、誰もが向き合わなければならない事。この様な自分に身近なことを通じて、人がどのように命に至り得るか、この事は芸術の本質であって、必要性であります。
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