上手く描くには
上手く描くということは描き方を知らないということだと、ゴーギャンは言っているようです。それは本当にそうで、いつなんどきも描いているとその葛藤は訪れます。ゴーギャンも上手く描く事と葛藤したからこそ言える言葉だと思います。
この意味の捉え方はやはりピンからキリまでありますが、最も低い捉え方としては、単純に上手く描こうと頑張る、ないしは上手く描けたことを喜ぶ、または喜ばれる。
また、常に内心に訪れる概念に対しての模倣もそうだと思います。そうなれば死ぬ事、全否定のみが描き方であります。
ゴーギャンは続けて、”絵画は他作品の模倣か革命かのどっちかしかない” と極端な事を言っています。
レオナルドは、”上手く構成された絵画はほとんどすでに完成している” と言っています。それに続けて、”無駄に描く事(過度な熟練)は必要ない”と言っています。
ぼくは、モンドリアンの作品をみているとデザインする事がほとんど全てだなと、とてもわかりやすく思う事ができます。あとは適当な色でも塗っときゃいいんじゃ無いかって思います。
やはり描く事は創造と破壊でできておりますから、単純に足し算でも引き算でもありません。決死の作業で現れた形を愛するしかない。つまり、どうしようもない形に現実を見るしかない。そういうところに絵画の可能性があって面白いのです。
もうあとは、何にもない所まで行って、その帰り道です。帰ってくる時に現象なんていくらでも向こう側から飛び込んで来てくれます。最初はこっちが追っていたものが今度は向こうから飛び込んできてくれます。最初はこっちが逃げていたものが、向こうから逃げていくようになります。