「研究」と一口に言っても。

新年度になり、どこかの大学のどこかの研究室で、「研究は勉強とは違うよ」と言われている学生がいると思う。私も10年以上前はそんな学生のひとりだった。ただ、その言葉を何も考えずに鵜呑みにしていた自分には、「研究」する力がまだまだ足りなかったのだなとも思う。

「研究」と一口に言っても、実験で仮説を検証する「研究」と、史料を読み解いて解釈する「研究」と、フィールドに出て得られた結果を考察する「研究」は、一括りにはできない。

自然科学と社会科学

いまの仕事で精神保健福祉や障害者雇用に関する文献や資料を読むことがあるけれど、学生時代に専攻していた自然科学とはアプローチが全然違うことにいつも驚く。

すごくざっくり言えば、自然科学ではエビデンスを「積み重ねる」イメージ。
メンデルの遺伝の法則にせよ古典物理学にせよ、1つの発見から次の発見につながり、それが体系立てられていくけれど、煉瓦を積み重ねるように、1が10になり、100になり、1000になり……、だけど終わりはない、そういうイメージがある(途中で崩れてしまうこともあるかもしれない)。

一方、社会科学では、ゴールがある程度定まっていることもある。
「ノーマライゼーション」や「共生社会」のように目指すべきものは海の上のブイのようにあるけれど、それをどのように実現していくか中間点を探っていくようなイメージだ。
ゴールの地点が100として決まっていても、そこから50の場所を決めて、10の場所を決め、1の場所を決めたら、0.1の場所を決めて……そういう終わりのないイメージが社会科学にはある。

あとは、エビデンスに対する「ゆるさ」の違いも感じる。
先日、うつ病の発症リスクにウイルスの遺伝的変異が関係しているという発表があったけれど、メンデル遺伝とは違うメカニズムが見つかるというのは「根っこが見直される」ような印象がある。
けれど、社会科学では「社会」を扱う以上、ゴールに関係する考え方や価値観が動くように、ゴール自体も微妙に動くように思える。波間にあるブイが位置を変えるように。

ここまで書いたことは乱暴かもしれないけれど、アプローチの違いに戸惑うことは多々ある。こんなことなら学生時代に基礎演習の授業を受けたかったと思う。後悔先に立たずである(余談だが、私は基礎実験が壊滅的にヘタだった。誇張なしでクラスでいちばんヘタだった)。

研究する側・される側

そして研究に対しての考え方では、私自身が病気になって「研究される」側になったことが大きく影響している。トラウマになったというほどではないけれど、ものすごく強烈な経験だった。
これは繰り返し言っているけれど、発症のリスクにせよ予後にせよ、それがどんなに小さな数字であっても、本人にとっては決して安心できるものではなかったし、当時は(今もだけど)それに対して寄り添ってくれるものがあまりにも少なかった。
私が3年間の研究室生活でわかったことを一言でいえば、「チョウは研究成果に対して何もコメントをくれない」。負け惜しみではあるけれど、それがわかっただけでも良かったのかもしれない。

もちろん、研究(科学と言うべきか)が研究である以上、客観的な数字やエビデンスが必要だし、数字が無意味だとも思ってはいない。それ以上に、その背景にある知識や洞察や熱意が大切だということが、学生時代の私には何もわかっていなかったのである。
多分、いま私が思想や倫理について勉強しているのも当時の反省があるからだと思う。後悔後を絶たずである。

自分の領域の立ち位置はどこなのか

さて、障害者雇用というのは、ものすごくニッチな分野である。
それは、そもそもの人口が少ないうえに、歴史も浅く、いまはまだ社会的に認識される段階であることも大きい。
そうすると、(特に経営陣など)障害者雇用の専門でないひととも話さないといけないし、相手がわかっていないことを前提に話を進めなければいけないことも多い。別に卑屈になる必要はないのだけれど、知識のある仲間内だけで話す訳にはいかない、というのが障害者雇用の分野にはある。

いまこれを言うのはずるいのは承知の上だけれど、私は学生時代にあった、ほかの専攻や研究領域を扱き下ろす態度や雰囲気が本当に嫌だった。外野にいるからそう言えるのだ、と言われればそれまでだけど、それは「伝統」にしてほしくないという気持ちは変わっていない。

それでも、後悔はしていない

ここまでいろいろ書いたけれど、それでも私は学生時代に研究生活を送れてよかったと思っている。もちろん、いま思えば呆れることばかりだし、もっとこうすればよかったという後悔は尽きない。けれど、研究の道に進んでみようと思ったことや、そこでチャレンジできたことに対しては、後悔はない。

情報収集の方法や資料の作り方、議論できた経験などいま活きていることはたくさんあるし、何よりいまの私が頑張れているのは、研究を頑張った・頑張っている多くの方の存在があるからだと思う。これから研究をするひとも、ほんの少しでもそういったものを手に入れてくれれば嬉しいなと思う。もちろん、心身の健康は第一で!

いつであっても、どこであっても、誰であっても、研究や勉強したいことがあることは幸せなこと。それだけは自信を持って言える。

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