光と灯り。
素敵だな、いいな、と思う人がいて、
でもその理由が言葉にならないときはないだろうか?
私は結構そういうことがあって、
ずっとなんでだろうと不思議だった。
よく行く喫茶店の店主
あまり話したことはない職場の他部署の先輩
初めて行った花屋さんのスタッフさん
外見が好みだとか会話が盛り上がったとか
とはまた違って
言葉を交わさなくても
その人が取り巻く雰囲気にぐーっと引き寄せられる感じ。
私にはその人がいる場所が
暖かったり明るかったりしてみえるのだ。
私が人に惹かれるとき、
その人たちは光派と灯り派にわかれている。
光派は自ら明るさを発し、まっすぐ進む光源のような人。
自分のやりたいことを自分のことばで表現できるような、どこにいてもその人の居場所がわかるような、そんな人。
灯り派は周りを照らし、周りを照らすことで自分も照らすような人。
どこにいるのかわからくなっている人の目印になるような、そばにいると肌で暖かさを感じ、遠くにいても見ているだけで心が暖まるような、そんな人。
照度の種類はさまざまだ。
飾らない偽りのないパァーっとした日光や
火力は弱いのに美しいキャンドル、
オイルの匂いと共に揺らめくアルコールランプや
見た目以上に火力が強い松明、
限られた場所にしか照らせないのに不可欠な豆電球、
闇夜を照らす月明かり、
まっすぐ先を照らす懐中電灯や
瞬間を切り取るカメラのフラッシュ、
何万人と共に突き上げるサイリウム、
何億光年を駆け抜けて今に光を届ける星座…。
ひとりひとり、ちがう。
ひとりひとりちがうその温度や照度に引き付けられているのだ。
一方で、光の人・灯りの人をみると
自分はその人たちを引き立てるような暗転にしか思えないこともある。
でもそれはちがった。
どんなに光の人・灯りの人でも誰かにとっては闇夜になる。
だから、誰しも自分の物語の中では
自分も光であり、灯りになるのだ。
光も灯りも闇夜もたくさん自分の中に取り込んで
自分ごと灯るような
そんな風に過ごしていきたい。
そんなことを考えた5月の夜。
時折訪れる、誰かが書いた文章を無性に読みたくなるときに、ご利用いただけたら幸いです。