無知から醒める生き方
ユヴァル・ノア・ハラリによれば、ホモ・サピエンスの特殊能力は「虚構を構築すること」であり、虚構の上に成り立つ人類の文明が発達するほど、私たちは不幸になっていく。仏陀は、「無知から目覚めなさい。そうすれば別な生き方が発見できる」と説く。無知から目覚める方法はたった一つ。私たちのものの見方を正すしかない。人間の認識パターンは太古の昔から変わっていない。石器時代から現代まで、人間は、「肉体はこの上なくありがたいもの」という感情で生きている。その虚構の認識パターンを破って、現象を客観的に見ること。
私たちは、化粧カバーの皮膚だけを見て、美しいものだと思って心を汚す。自分と他人の身体に執着する。年を取って化粧カバーがボロボロになると、嫌な気持ちになったりする。肉体を見て激しい感情を引き起こすのは、ありのままの姿を見ないからだ。化粧カバーで満足するからだ。肉体は、24時間365日、垢や糞を絶えず生産し続けている。肉体という工場から流れ出てくるのは垢や糞だけ。1週間でも風呂に入らなければ、耐え難い悪臭を放つ。美味しい食事のために収入を確保するのに苦労して、料理を作るのにも苦労して、楽しい気分で贅沢な食事をする。そうやって高価な材料を使って肉体という工場が生産するものは、さまざまな糞のみ。それも「絶えず」だ。
この肉体は、骨と腱で組み立てられ、肉と皮膚で舗装されている。皮膚に隠れているので、ありのままには見られない。
不浄で、悪臭を放つ、この身体を人間が守っている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。
このような身体を持ちながら、自分を偉い者だと思い、また他人を軽蔑するならば、かれは「観る能力がない」という以外の何だろう。(Sn1.11)
ホームレスと超一流の美人モデルが2人並んでも、2人ともただの糞の塊に過ぎない。違いは、ホームレスは自然のままにいるが、美人モデルはお化粧して、お洒落して、仮面をかぶっているだけ。「あなたは糞の工場だ」と言われたら、誰だって腹が立つ。否定したくなる。肉体は清らかなものだと信じたい感情が根深くある。しかし、仏弟子は、事実をありのままに見ることで感情の暗闇を破る。理性を向上させて「私の体は糞の工場に過ぎない。こんなツマラナイもののために戦争なんかするか。喧嘩なんかするか。嫉妬なんかするか」という厭離の境地を目指す。
たとえ証拠がなくても、肉体は清潔で美しいものだと思って何が悪いのだろう? その疑問は、世界を客観的に見ないことから起こる。人間は、身体を素晴らしいもの、尊いものと思い込んで、身体こそ喜びや楽しみの源泉だと信じて疑わない。人間の努力・能力・財産は、すべて身体の維持・管理のために費やされている。なのに生き方は矛盾している。尊い身体に執着し、身体のために働き続けながら、ゆっくり休む暇がない。家族との楽しい時間を犠牲にして、毎日、夜遅くまで必死に働く。ストレスが溜まって熟睡できなくなり、心身に不調をきたす。身体を楽にさせてあげようと思って働いているのに、仕事のせいで身体が壊れていく。肉体至上主義を謳いながら、実行しているのは肉体破壊主義。
「肉体にはこの上ない価値がある」と執着するからこそ、戦い、殴り合い、だまし合い、紛争、略奪、強盗、詐欺、窃盗などがあるのではないか? 限りない悩み苦しみが生まれるのではないか? 生に執着すると、そのエネルギーは死で終わらない。また再生する。再生するときは、罪を犯した心のエネルギーなので不幸に陥る。一向に幸福になれない。一切の生命は、「幸福になりたい」と切望しているだろう。ならば、証拠がないものを感情で「事実だ」と決めつけるのは止めた方がいい。真の幸福に達したいと思うなら、仏陀がわかりやすく語っている肉体の真実をそのまま理解すべきだ。