見出し画像

世阿弥の「初心忘るべからず」

中学の時、この言葉に出逢う。いい言葉だなあ、と思った。国語の先生が、この言葉をどう解釈されたかは、覚えていない。が、私の解釈はこうだった。

物事をはじめたばかりの謙虚な気持ち、つまり初々しい気持ちとでも言おうか。

ずっと上の解釈で間違いないだろう、と思っていた。多くの生徒が、そう解釈していたはずだ。

一般教養選択科目で、細谷直樹先生の『風姿花伝講義』を履修した。

その時、最初に問われたのは、「花とは何か」と「初心とは何か」の二つであった。ここでは、後者について触れる。

講義を履修したのは10人足らずであった。そのうちのU君が、私と同様解釈の「初々しい心」説を唱えた。

細谷先生は、言下に「違う」と仰った。初々しい心と訳したところだが、それでは誤訳になってしまうということだった。

初めての稽古の時は、失敗もする。未熟ゆえに迷う。うまく出来ない。すなわち未熟な時の心を「初心」と言うのである。

凡そこうおっしゃた。

世阿弥の「初心忘るべからず」は、多くの人が知っている。それなのに、「情は人のためならず」と同様の誤読をしているのかもしれない。

亡き父は、事あるごとに「情は人のためならず」と言っていた。人のいい父に、母は「他人さまにばかり親切にしてどうするの」と嫌味を言うことがあった。その度に、父は上の言葉で言い返していた。

その頃の私は未熟であったので、父の本意が見えなかった。が、後年父の言葉が身に染みるようになった。

初心という言葉も、加齢を重ねるにつれて身に染みる。

身に染みる言葉を幾つもっているだろうか。そう自らに問うてみる。一つ挙げるとすれば、「初心忘るべからず」である。二つ目に挙げるなら、「情は人のためならず」である。

染みた言葉は自分を創る。



いいなと思ったら応援しよう!

フンボルト
ありがとうございます。