この地に散りばめられたキーワードを纏めたい 讃留霊王(男、夫、雄)須佐之王、蘇我氏、菅原道真、御伽噺、快天山古墳、高句麗式積石塚、浦島太郎、滝宮、乙武、乙姫、耽羅、久麻伎、鷲ノ山、綾川

『旧唐書』「巻199上 列傳第149上 東夷[3]」には、「倭国伝」と「日本国伝」の2つの記述もあり、「倭国」の記述に続く「日本」においては、「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本爲名。或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。或云:日本舊小國,併倭國之地。其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里,西界、南界咸至大海,東界、北界有大山爲限,山外即毛人之國。[4]」とあり、「日本の国は、倭国の別の種なり。 その国は日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。」そして続いて言い分が異なる二例を挙げ、まず「或いは曰く、倭国は自ら其の名が雅でない事を悪(にく)み、改めて日本と為す」、しかし続いて「或いは云ふ、日本は旧小国。倭国の地を併せる。其の人、入朝する者、多くは自ら矜大(傲慢)、実(真実)をもって対(こた)えず。故に中国、焉(これ)を疑う。」 総括として前者の言い分には懐疑的であり、後者の見解により「日本の国は、倭国の別の種なり。 その国は日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。」の言葉となっている。 そして地勢が述べられ、「又云う、その国境は、東西南北各数千里、西と南の境界は大海に全て至り、東と北は大山が有る為限られている。山の外は即ち毛人の国である。」と記述されている。

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そして、代初頭の『太平御覧』にもそのまま二つの国である旨が引き継がれている。これについては、編纂過程の影響であると考えるのが日本における通説である。異論も存在していて、例えば、森公章は「日本」の国号成立後の最初の遣唐使であった702年の派遣の際には国号変更の理由について日本側でも不明になっており、遣唐使が唐側に理由を説明することが出来なかった可能性を指摘する[5]大庭脩は、これを単なる編纂過程のミスではなく「倭国伝」と「日本国伝」の間の倭国(日本)関連記事の中絶期間には、白村江の戦い及び壬申の乱が含まれており、当時の中国側には、壬申の乱をもって「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立したという見解が存在しており、結論が出されないままに記述された可能性があると指摘している。479年倭王武都督号に含まれる加羅国の荷知王南朝の斉に朝貢し「輔国将軍・本国王」に封じられたこと、『日本書紀』が記す任那日本府が武に比定される雄略天皇紀に初出であることも注意を要する。  

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このように我々は自国の歴史でありながら二つの国があった事をはっきりと認識している人は少ない。「日本」とは何であるかを詳しく知らないで、知ったような事を言う人が多い。

AIが発達してもなお、データを国に管理されていれば、いつまでも正しい答えは出ない。日本国の歴史や薬品の有効性なども見方によってはさまざまな回答が出てくる。

上記の「旧唐書」の記述にしても、中国の歴史書など信憑性が低く、信用するに値しないと切って捨てる人も多い。なぜそう言い切れるのだろうか。宮内省や厚生労働省に管理された限定的なデータだけで何が分かると言うのだろうか。

既に私達は管理されたデータの中でああでもない、こうでもないと議論する事を余儀なくされてきました。そうした閉鎖的で尊敬できない隣国のような状態に自分たちもある事に不感症になってしまっています。

壬申の乱以前から日本列島には多くのクニがありました。現在でも都道府県が存在し、その都道府県の中でも言葉や文化の違いが認められます。お国言葉などと言われますが、まさに国が違っていると多くの土地に住んだ経験から感じられます。

風習、言葉、顔相、敵対関係などを見ていると、これはまさに国籍が違っていると感じるのは大袈裟な事ではありません。

昔からこの列島は、さまざまなクニで構成されていました。しかし、そうであっては困る権力集団が、万世一系、正当な支配者を主張する為に日本書紀や古事記を作ったと考えられます。

列島全土に様々な勢力が存在したでしょう。その証拠として古墳や方言、文化、風習、顔相などが残されています。御伽噺など、正史とは異なる伝承は、地域の正史と言えるかもしれません。

表題に掲げたワードはこの地の一連の歴史を物語っているように思います。

讃留霊王とは何でしょう。讃岐に留まった霊王とは誰の事なのでしょう。この地には浦島太郎伝説が存在します。竹取物語や桃太郎もここ讃岐に関係するのは偶然でしょうか。一説には学問の神様と言われる菅原道真が作った話とも言われます。菅原道真は藤原氏により大宰府に左遷され、日本三大怨霊となった人です。

何かを残したかったに違いありません。讃岐に留まったと言えば浦島太郎は龍宮城に留まって、玉手箱を開けたら留まっていたと思われる年月分の年を取ってしまいました。讃留霊王の墓の近所には竜宮を思わせる滝宮神社が存在し、そこには乙武さんの名が刻まれています。と言う事は女性なら乙姫と言う事ではないでしょうか。

そしてその滝宮神社からそう遠くない場所には鷲ノ山が有ります。鷲ノ山は河内の大古墳やその近くの玉手山古墳群の石棺に用いられている石材の産地です。浦島太郎が讃岐に留まっているうちに時代は流れ、河内では勢力が塗り替えられた事を示唆しているように感じます。玉手箱とは鷲ノ山の石材で作られた石棺の事なのではないでしょうか。

この付近には古墳時代前期に築かれた前方後円墳としては、四国最大規模を誇る快天山古墳が有ります。四世紀頃から先進文化を備えた一団が栄えた事を示しています。付近には高句麗式積石塚古墳も散在しています。

日本三大怨霊中の二人である菅原道真や崇徳上皇がなぜこの地に送られたのか、須佐之男を想起させる牛頭天王や蘇我氏らに纏わる遺跡もこの四国には多く存在します。須佐之男や蘇我氏も正史では悪く書かれています。歴史の中央には君臨できなかった、傍系の王統の存在がこの地に感じられます。

この付近を歩いてみると、まだまだ多くの古墳などの遺跡が残っているように感じます。同時にどんどん開発で消滅してもいます。手付かずの未調査古墳から新発見がある事を期待しながら、かつて栄えていたであろう、讃岐の王統の研究を続けたいと思っています。


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