奈良公園の鹿と日本史最大の謎 藤原氏

どこの国にもつまらない人間はいる。
動物を虐待したり、盗みを実況中継したり。

彼らは奈良公園の鹿の意味なんて興味はないだろう。

どんな事にも理由がある。
鹿と言えば最近では害獣として駆除対象になっている場所も多い。
いくつかの理由で山の樹木の皮を食い尽くし、木が枯れて土砂災害の原因になっている。

人間が山の奥深くまで入り込めば鹿の生活に影響を与える。野生動物にはマダニが付く。鹿の生活圏に入れば当然人間はマダニの影響を受ける。

これは対処方法を知らなければ病院では切開手術になる。知っていれば簡単にキズも作らず取れるのだがそうした事は医者はしない。金にならないから。

マダニは返しの付いた針のような口器をヒトに刺し込んで吸血する。口器は引き抜こうとすると返しが引っ掛かって絶対に抜けない。力を入れて抜くと口器が体内に残り、そのキズは長期間経過しても治らない。痒みが継続し、掻き傷が一生残る事もある。

この口器は返しが付いた針のような構造になっているのでそのまま引っ張っても抜けない。この返しは産毛のように柔らかい。口器を回転させると軸に巻き付くから巻き付いたところを引き抜けばすんなり抜ける。こんな事を言うとちゃんと病院に行きなさい、マダニは猩紅熱やライム病を媒介する恐ろしい虫だから専門家に任せなさいなどと言われる。彼らに任せてメスで切開されても良いならそうしてください。メスの傷を作られて、消毒液で消毒されてテープ貼るだけですから。病院に行っても罹患しない人はしないし、する人はする。ただし、刺された後に気分が悪くなったり、発熱した場合は病院に行ってください。昔の人は野山で労働してマダニと共に暮らしていたのでたいていの人には耐性があります。僕は何度か山でやられていますが具合が悪くなった事は一度もありません。

近年、ペット店やAmazonでは口器の構造を理解した仕組みのピッカーが売られている。ペットは場所によってはたくさんマダニを連れてくる。こうしたものが一般的に売られているようだから知っている人にはおなじみのものだろう。
引っ掛けてくるりと回して引けば簡単に除去できるスグレモノ。

高校生の頃、バスで八王子方面に授業で行った際にクラスメイトの腹に枝が刺さったと言う事でバスが病院に直行した事があった。僕は車内で見せてもらったが、黒豆のようなものが脇腹に刺さっていたが、よく見ると足のようなものが豆の周りに何本が見えていた。

病院から戻った友人に聞いたらマダニだった。マダニってあんなにデカくなるんだと、その時初めて知った。吸血すると想像できないくらい大きくなる。あの頃はまだ、マダニの口器の構造は明らかになっていなかったのでピッカーは無かった。あったとしても海外にしか無かったはずだ。友人の腹にはメスの傷跡が今も残っているだろう。

因みに悪徳業者が商売の為に家の中に住むコナダニ等のダニ類をマダニと混同させるような広告を出して恐怖を煽るものがありますが、マダニ以外のダニは刺したりしません。片栗粉などの粉類の保管がいい加減だと湧いたりしますが、ほぼ無害です。人によってはアレルゲンになりますが、あまり神経質にならないでください。

ダニについてはずいぶん昔ですがこれで学びました。なぜマダニはシカの生息地に多いのか、もっと栄養価の高いシカセンベイを僕にも売らせてくれないかなど思うところはいろいろある 笑


さて、ここからが本題
奈良公園のシカは理由があってあそこにいる。
DNA的に紀伊半島のシカに近似しているため在来である事が近年明らかになっているが、そこは問題ではない。実質的な日本の支配者である藤原氏にその秘密がある。

ネットでは右翼だのネトウヨだの左翼だのパヨクだのとはしゃいでいる連中がいるが、日本最大の右翼とは天皇制を恣に操った藤原氏だろう。

藤原氏を語るのは簡単ではない。なにしろ記紀ではアマテラスの岩戸引きこもりの頃から登場しているにも関わらず、また日本人なら誰でも知っている「乙巳の変」またの名を「大化の改新」の首謀者として知られているにも関わらず、その出自さえ不明な藤原一族。

藤原氏は日本そのものと言える存在です。

鹿をヒントに彼らを考えたいと思います。例によって比較的バイアスが少ないAI(事によってはバイアスが無いとは言っていません)で藤原氏と鹿に関する周辺情報を集めてみますので予備知識として読んでください。

分かっていない事を考える時には広い周辺知識が必要であり、信仰では無いので少ない情報から無理やり答を導き出しても、この手の思考は最低限の広い周辺知識が無いと無意味と考えています。


耽羅時代(済州島に存在した古代王国)におけるシャーマニズムとシカ信仰は、深く結びついていました。

シャーマニズムとシカ

耽羅のシャーマニズムでは、シカが重要な役割を果たしていました。シャーマンは自然界の精霊とコミュニケーションを取るために、シカを神聖な動物として崇めました。シカは精霊の使いとされ、その姿や行動が神聖なメッセージと解釈されることがありました

三姓神話とシカ

耽羅の三姓神話には、シカが登場します。この神話では、高・梁・夫の三兄弟が穴から現れ、シカの導きによって王国を建国したとされています。この伝説は、シカが神聖な存在として認識されていたことを示しています

儀式とシカ

シャーマンは儀式の中でシカの皮や角を用いることがありました。これにより、シカの霊的な力を借りて、病気の治療や未来の予知を行うと信じられていました。シカの皮をまとったシャーマンは、精霊と一体となり、コミュニティの問題を解決する力を得るとされていました

耽羅時代のシャーマニズムとシカ信仰は、自然崇拝と深く結びついた独特の信仰体系を形成していました。

1: シャーマニズムの基本と歴史 2: 耽羅 - Wikipedia

新羅以外にも、朝鮮半島の他の王国でシカが神聖視されることがありました。

高句麗

高句麗(紀元前37年~668年)では、シカが神聖視されることがありました。高句麗の神話や伝説には、シカが登場し、特に狩猟文化が発達していたため、シカは重要な動物とされていました

耽羅

耽羅(たんら、済州島に存在した古代王国)でもシカが神聖視されていました。耽羅の三姓神話には、シカが登場し、神聖な存在として扱われていました。耽羅は独自の文化と信仰を持ち、シカはその中で重要な役割を果たしていました。

これらの王国では、シカが神聖視されることで、自然崇拝やシャーマニズムと結びついた信仰が形成されていました。

1: 朝鮮神話 2: 耽羅

新羅時代のシカ信仰は、特に新羅の建国神話や仏教の影響を受けた信仰体系の中で重要な位置を占めていました。

建国神話とシカ

新羅の建国者である朴赫居世(パク・ヒョクゴセ)は、シカの姿をした神の導きによって王位に就いたと伝えられています。この神話は、新羅の人々がシカを神聖視し、特別な存在として崇めていたことを示しています

仏教とシカ信仰

新羅時代には仏教が広く受け入れられ、シカ信仰も仏教の影響を受けました。特に、弥勒信仰と結びついた形でシカが神聖視されることがありました。弥勒菩薩は未来に現れて人々を救済するとされる仏であり、新羅の人々はシカを弥勒菩薩の使いとして崇めました

花郎とシカ

新羅の花郎(ファラン)という若者の修練団体もシカ信仰と関連があります。花郎は新羅の貴族の子弟たちが集まり、武芸や精神修養を行う団体で、彼らの活動にはシカが象徴的な存在として登場します。花郎のリーダーは「未尸郞(ミシラン)」と呼ばれ、これは「シカの若者」という意味を持ちます

新羅時代のシカ信仰は、農耕社会における自然崇拝と仏教の教えが融合した独特の信仰体系を形成していました。これにより、シカは新羅の人々にとって神聖で重要な存在となっていました。

ここで気になったのは日本には馬と鹿を組み合わせた言葉があります。鹿が新羅を指すとすると馬は百済の前身である馬韓と考える事もできるでしょう。これらの国々を揶揄する立場の者が「馬鹿」と言う言葉を作った可能性は無いのでしょうか。その揶揄する者として考えられるのはその他のアジア諸国、アイヌ系、中国系、高句麗、加羅、伽耶等の新羅、百済以外の民族が考えられます。日本古代史的には秦の始皇帝系、饒速日系がそれに相当するのかなとおぼろげに感じています。余談です。


新羅には鹿、龍神、弥勒信仰があった事が分かります。

アジアには他にも鹿を神聖視する文化があります。

例えば、中国では「梅花鹿」(メイホアルー)と呼ばれるシカが神聖視されています。特に道教や仏教の伝統において、シカは長寿や幸福の象徴とされています

また、ベトナムや韓国でもシカは神聖な動物とされることがあります。これらの国々では、シカが神話や伝説に登場し、神聖な存在として扱われることが多いです


奈良の鹿は藤原氏に関係するものと言われていますが本当ですか

はい、奈良の鹿は藤原氏と深い関係があります。奈良公園にいる鹿は、春日大社の神の使いとされています。春日大社は藤原氏の氏神を祀る神社であり、藤原氏が鹿を神聖視し、手厚く保護してきました

特に、春日大社の主神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、常陸国の鹿島神宮から白鹿に乗って奈良にやってきたという伝説があります。このため、鹿は神の使いとして尊ばれ、藤原氏や興福寺からも大切にされてきました

奈良の鹿が人にお辞儀をする習慣も、藤原氏が鹿を神聖視し、出会うときに挨拶をしたことから始まったと言われています


いかがでしょうか。藤原氏と鹿の深いつながり。

藤原氏は天皇制をうまく利用しながらナンバー2の座を長く続け、他の豪族を葬り去り、傀儡政治を長く行ってきました。その伝統は今でも続けられています。

日本の正史、「記紀」の編纂にも深く関わり、武士の時代になるまで、遺跡から出てくるものの整理を行ったのも藤原政権と考えられます。平安時代だけで考えても四百年と言う時間は十分に歴史の整合性を図る時間があったと言えます。

今後は藤原氏を考える時間を増やしたいと思っています。

藤原氏=新羅と考えて良いほど単純だとは思っていません。もちろんルーツに関わっている可能性は十分だと思いますが、その後複雑にさまざまな血が混ざっているのは歴史を見れば明白です。だからこそ、源氏にも平家にも影響力があったのだと思います。

どうやら日本の歴史は周辺アジア諸外国の事情で進行してきたもののようです。考えてみれば現代の日本もアジアのみならず、世界の事情で進行しています。そのように広い視点で日本古代史を捉える事が必須だと考えています。


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