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小説 『フライハイ』 (1)

第1話 ジャム・セッション

 二人目の妻と別れてから、ハカセは三鷹駅北口にある職場の真向かいのマンションで一人暮らしを始めた。
 金曜の夜はノー残業デーと決めていたが、スタッフ全員を帰らせた後、一人クロアチアの医療機器メーカーに送る資料に目を通すためにオフィスに残った。
 仕事を終えた頃には外はすっかり暗くなっていたが、外食する気にもならなかったハカセは、真っ直ぐに帰宅して冷蔵庫にストックしてあった冷凍パスタをレンジで温め、レタスとアボカドとミニトマトのサラダを添えて、グラス一杯のワインを飲みながら質素な夕食を終えた。

 ワイングラス以外の食器を食洗機に押し込んでスイッチを入れ、グラスに二杯目のワインを注ぐとワーキングデスクに移動し、ハカセは愛用のフェンダー・ジャズベースをオーディオ・インターフェイスに繋いだ。
 少年時代からアイドルだったマーカス・ミラーや彼が参加したデビッド・サンボーンの曲をブルートゥースで繋いだスマホから再生し、それに合わせてベースを弾き始めるとデスクトップの小さなモニタースピーカーの音場で時空を超えたセッションが始まった。
 そうやって一人でプレイしていると、無性に生身の人間とプレイしたくなってくる。とは言え、人前でプレイする機会を失ってからすでに二十年以上の月日が流れ、かつてのバンドメンバーともすっかり疎遠になっていた。

 数日前、西荻窪にあるヘブンズゲートというライブハウスのホームページを見つけたとき、ハカセはすぐにメモアプリにリンクを記録した。たしか金曜の夜はジャズ・ファンク・セッションのはずだった。リンクをクリックしてスマホの画面にもう一度ページを表示すると「飛び入り歓迎。リクエストがあれば譜面を4部お持ちください」と書かれている。
 時計を見るとまだ八時を過ぎたばかり。西荻まではJR中央線で二駅だから、すぐに出かければセッション終了までには余裕で間に合うはずだ。ハカセは大急ぎでマーカスの"Panther"のコード譜を四部プリントアウトし、愛器をセミハードのケースに収めて自宅を後にした。

 スマホの地図を頼りに店に向かったがなかなか見つけられず、その場所を二回通り過ぎて漸く雑居ビルの一階に看板を見つけた。狭い間口の入り口奥に地下へ続く階段があって、ヘブンズゲートはその先にあった。
 ハカセの五十年近い人生の中でも、見知らぬ人とのジャム・セッションに参加するのは初めての経験だった。外に音が漏れないように一つ目のドアを内側からしっかり閉め、恐る恐る二つ目のドアを開けると、聴き覚えのある楽曲が耳に飛び込んできた。ジェームズ・ブラウンのバンド・リーダーだったピー・ウィー・エリスの曲だが、今は亡き天才ベーシスト、ジャコ・パストリアスがプレイしたことでミュージシャンの間で一気にポピュラーになった”The Chicken”だった。
「いらっしゃい」
 セッション・ホストらしい男性に声を掛けられ、ハカセは軽く会釈した。入り口のところで店の人に二千五百円を支払い、注文したビールが注がれたグラスを受け取ると、空いている席を探す。
「名前とパートをそこに書いてください」と言われ、指さされた先を見ると、ノートの開かれたページにボールペンで枠が書かれている。Bassと書かれた行にはすでに三人の名前が並んでいたので、ハカセはその横にカタカナで「トビタ」と書き加えた。
 客席には十二・三人が座っていた。ステージ上の五人を加えても二十人に満たないが、全員初対面なので、アウェイな雰囲気は否めない。ハカセはとりあえず空いていた席に腰を下ろしてビールを一口啜った。するとそんな姿を見かねてか、最初に声をかけてくれた男性がグラスを持って隣の席までやってきた。
「よろしく!」と乾杯を催促され、ハカセは慌てて自分のグラスを彼のグラスに当てたが、その音は音楽にかき消された。
「何かリクエストがあったら言ってください」と白髪交じりの男性ははっきり聞こえるように耳元で発声した。
 リクエスト曲を告げて譜面を四部手渡すと、彼は「おー! マーカスですね」と微笑んだ。「私もベーシストです」
 ハカセがケースから愛器を取り出すと、「ヴィンテージですか?」と彼は相好を崩した。
「マーカスと同じ七十七年製です」とハカセが言うと、「ベースは長いんですか?」と尋ねられた。
「中学の頃からだから、長いと言えば長いですね」と答えたあと、人恋しかったせいかハカセはいつになく語ってしまった。「若い頃はバンド活動してましたが、止めてからもう二十年以上になります。最近、仕事に少し余裕が出てきたんでまた弾き始めたんです。でも、セッションも初めてですし、殆ど初心者みたいなもんです」
「またまた。初心者はマーカスなんて弾けませんから」と笑いながら彼は握手を求めてきた。「セッションホストの関口です」
「よろしくお願いします。飛田です」
 そうやって互いの耳元で会話をしているいうちにステージの演奏が終わり、関口はマイクを手に取ってハカセを紹介した。
「こちらはベースのトビタさん。さっき来られたばかりですが、早速弾いてもらいましょう」
 楽器とエフェクターを持って立ち上がり、ハカセが軽く会釈すると一斉に視線が注がれた。
「トビタさんは今日が初めてのセッションだそうですが、なんとマーカスの『パンサー』をリクエスト!」
「すげぇ」と呟く声が客席から聞こえてきて、プラグをアンプに挿すときに指先が少し震えた。
 深く息を整えると、ハカセはベースソロから始まるその曲を一音一音丁寧に弾き始めた。続いて弦を弾く指でカウントを取ると、ドラムとキーボード、更にギターとアルトサックスが加わってアンサンブルを奏で始めた。ステージと言うには低く狭い場所だったが、そうやって人前で演奏することにちょっとした悦びを感じ始めていた。
 少し長めに各パートのソロをフィーチャーしたために演奏時間は十分を軽く超えたが、ドラマーがエンディングを盛大に盛り上げ、プレイを終えたメンバーたちは互いにハイタッチした。どうやら不安は杞憂に終わったようだった。みんな楽しそうだ。
 鳴り止まない拍手の中で、関口が再びマイクを取った。
「いやぁ、最高! トビタさん、初めてなんて嘘でしょ?」
 ギタリストとドラマーがステージを降り、キーボードプレイヤーとハカセだけがそのまま残った。
 マイルス・デイビスの”TUTU”——これもマーカスの曲で、彼のライブアルバムでは"Panther"の次に収録されている——をサックスプレイヤーがリクエストし、演奏を終えると短い休憩になったので、ハカセもベース一式を抱えてステージを降りた。

 得意な曲が二曲続いたこともあって、思っていた以上にリラックスしてプレイ出来た。ハカセは安堵の溜息を漏らしながら席に戻り、気が抜けて生ぬるくなったビールを喉に流し込んだ。
 客席に戻ったプレイヤーたちと一通りの乾杯を終えると、隣の席にいたギタリストが話しかけてきた。
「ケンジです。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「ところで、トビタさんて、もしかしてあのフライハイの飛田さんですか?」
 勿体ぶって隠したところで何も得る物はない。
「はい」とハカセは正直に答えた。
「やっぱり! 僕、アルバム持ってますよ!」
 そのやりとりを聞いてか、それまでバラバラに会話していたプレイヤーたちが遠巻きに集まってきた。
「フライハイって?」とホストの関口が誰にともなく尋ねると、キーボード・プレイヤーがハカセに代わって答えた。
「昔、ELICAがボーカルやってたバンドですよね?」
 フライハイを知る人は少ないが、かつてUA、MISIA、ELICAと言われた大高えりかのことは誰でも知っている。
「そんなすごい人なの? そりゃ上手い筈だ」と言う声が聞こえた。でも、多くの人々にとってフライハイはELICAのバックバンドに過ぎなかったのかもしれない。自然と彼女のことに話題は移っていった。
「ELICAって今活動休止してるよね?」と誰かが言った。
「何かの病気ですか?」とケンジが突然尋ねた。「去年の紅白で見ましたけど、すごく痩せてたから」
 ハカセはテレビを見ないし、エンタメ系の雑誌も読まない。ネット・ニュースも専門の科学技術ジャンル以外は政治経済とスポーツくらいにしか目を通さないから、最近のELICAのことは何も知らなかった。
「白血病でしばらく休養するってラジオで言ってましたよ」とサックスプレイヤーが教えてくれた。
 ハカセは「えっ?」と小さな声で呟いた。
「そう言えば、蒲田のライブハウスでセッションホストやってるキーボードの女性、昔ELICAと一緒にやってたんじゃないかな?」とドラマーが会話に加わった。
「高見香ですか?」とハカセは訊ねた。
「山本さんだったかな? ちょっと待って」と彼はスマホを手に取った。「フェイスブックで友達になってるから」
 しばらく画面をスクロールさせると「そうそう、山本香さん」と言いながらスマホを見せた。昔に比べるといくらかふくよかになってはいたが、それは紛れもない香の顔だった。

(第2話へつづく)

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加藤 猿実(Sarumi Kato)
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