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アイルトン・セナを偲んで
1994年5月1日はアイルトン・セナ・ダシルヴァが亡くなった日。今年で30年になります。
昨日は沢山の方がSNSでセナのことを取り上げ、またマスメディアでもセナの思い出を語ってくれた方がいたようですが、私も書かずにいられなくなって今この記事を書いています。
あの日、ちょうど日本では日にちが変わったくらいの時間に、私も他の多くのF1ファンと同じようにテレビの画面を食い入るように見つめながら、どうか生きていて欲しいと祈っていました。
でもあの瞬間——イモラサーキットのタンブレロコーナーでクラッシュしたマシンの中でセナのヘルメットが一瞬動いたとき——私は「あっ!」と小さな声をあげていました。それがセナの魂が肉体を離れる瞬間のように思えたからです。
それからは、もしかしたらセナは神に召されたんじゃないかという予感を否定するのに必死でした。
午前2時頃だったでしょうか。祈りも虚しく解説者の今宮純さんが泣きながら死亡の報を告げられました。死亡時刻は事故の4時間後の現地時間18時40分でした。
私がセナに魅せられたのは、中嶋悟選手がフル参戦するようになった1987年。中島選手のチームメイトになった彼が駆る黄色いロータス・ホンダ99TでのモナコGPの予選ラップでした。
当時は「天才セナ」と呼ばれていましたが、まだチャンピオンには遠かった頃です。
雑誌や映像で1984年の雨のモナコの奇跡の追い上げや、翌年の雨のポルトガルでの初優勝の噂を聞いて「雨に強いドライバーなんだな」と思ってはいました。
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狭いモナコの公道で、縦横無尽にマシンを操るその鬼神の走りを捉えた映像をテレビで目の当たりにして、「これがあのセナか!」と正直驚きました。
小学生の時、ホンダのマシンがメキシコGPで初優勝したことがきっかけでF1ファンになりました。
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しかし初めてアイドルになったロータスのジム・クラークがF1ではなく、なんとホッケンハイム(ドイツ)でのF2のレース中に事故死したことをNHKのニュースで知りました。
中学生だった私の衝撃は大きく、当時のF1は火災事故で毎年多くのドライバーが亡くなっていたので、その後は出来るだけ一人のドライバーだけを応援しないことにしました。
それから何年か経って、私はフェラーリのニキ・ラウダに魅せられていましたが、そのラウダもニュルブリックリンクでのドイツGPの大事故で炎に包まれました。
まさかあの事故から不死鳥のようにカムバックするとは想像できませんでしたが、あまりに衝撃的だったためにもう誰のファンにもならないと強く心に決め、その年初めて富士で開催された最終戦にも敢えて足を運びませんでした。
そんな私もセナの魅力には抗えませんでした。
その頃のF1マシンは燃えなくなり事故死するドライバーは激減していましたから、これで漸く一人のドライバーを安心して応援出来ると私にも思えたからです。
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それ以来、セナが勝ったレースのテレビ中継はVHSに収めてタイトルを付け、セナの特集記事が載った雑誌と一緒に本棚に並べるようになりました。
セナがホンダエンジンと共にマクラーレンに移籍してチャンピオンをとった頃から日本は空前のF1ブームになり、セナの人気は鰻登りに上がっていきました。そしていつの間にか「セナ様」とか「音速の貴公子」と(特に女性ファンやあまりF1に興味の無かった人々から)持て囃されるようになっていました。
一方で、古くからのF1好きの間では「俄かF1ファン」と一緒にされたくないからか、自分がアンチ・セナであることを公言する人も少なからずいました。セナに無関心であることが真のF1ファンの証しのような変な空気と言いますか。。
「音速の貴公子」は古舘さんが名付け親ですが、私自身も音速には程遠いF1レーサーになんでこんな変な渾名を付けるのかと可笑しくなって、自分がセナのファンであることを公言することを恥ずかしく思うようにさえなってしまいました。今思うとそのこと自体が恥ずかしいのですが。
それでも、1991年に彼が念願の地元ブラジルで初優勝を果たした時は私も感動に涙しました。
得意の雨混じりとは言え、レース終盤に6速以外の全てのギアを失い、手負のマシンでトップチェッカーを受けたのです。
あの日、ポディウムの一番上でトロフィーさえ持ち上げることが出来ないほど憔悴仕切っていたセナの姿はとても印象的でした。
アンチ・セナの人々は「6速だけで走り切れるはずがない。セナは嘘をついている」と言いましたが、後に公開されたオンボード映像に、アンチの人々も驚かされました。
パワーステアリングもないマニュアルシフトのマシンで、右手でシフトレバーを押さえながら左手だけでステアリングを握ってコーナーをクリアしていたからです。
そしてその年、ライバルだったプロストとの因縁に左右されることもなく堂々の3度目のチャンピオンに輝きました。
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日本でセナがあれほどまでに人気になった要因は、彼のトップアスリートには希有な愁いを帯びた表情と、その一途さにあったのではないかと思います。
シューマッハやマンセルのようなふてぶてしさをセナはあまり持ち合わせていませんでした。
日本のテレビにもよく出演していましたが、『笑っていいとも』に出演したときでしょうか? もみくちゃにされながらも警備員に押された女性ファンを優しく気遣う姿がお茶の間に流れたのもファンを増やした要因だったと思います。
繊細で大胆で、優しくて傲慢で、一切の妥協を許さない完全主義者であり、一度コクピットに潜り込めば誰よりも速く、見る者を魅了する芸術的と言えるほど切れ味鋭い走りを見せるレーサーは後にも先にもセナ以外にはいません。
まさかそのセナが亡くなるとは、あの日まで想像もしなかったことです。
あのとき、画面に映ったエイドリアン・ニューウェイ(セナのマシンをデザインした稀代のデザイナー)の今にも泣き出しそうな横顔がずっと私の脳裏に焼き付いています。
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私にとってセナの命日は日本時間の5月2日でした。
一晩中眠れなかったこともありますが、その日は仕事にも身が入らず、夕方仕事を終えて帰宅する途中、車の中で一人になった時に声をあげて泣きました。
知り合い以外の人の死に接して涙を流したのはあの時だけだったと思いますが、それから一週間ほど亡霊のように気力が抜けた日々を過ごしていたのが、今は遠い昔に思えます。
セナの葬儀はブラジルで国葬になりましたが、ブラジルの英雄セナは生きていたらきっと大統領になっただろうと今も言われています。
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日本時間で5月2日の1時40分が、イタリア現地時間でセナが亡くなった5月1日の18時40分。
その時間には、友達がセナファンの私のためにブラジルで買って来てくれた——珍しくウィンクしながら微笑んでいる——彼のブロマイドを遺影に、ヘルメットのフィギュアをお位牌代わりにして、ワインで献杯を捧げました。
F1ファンになって来年で60年になります。今は地上波での中継もありませんが、私はCSやDAZNでF1を観戦し続けています。
今のF1の安全性は、セナの前日に同じサーキットで命を落としたローランド・ラッツェンバーガーとアイルトン・セナのおかげでもあります。
より安全になったF1で、若くして命を落としたセナの記録は、シューマッハ、セバスチャン・ベッテル、ルイス・ハミルトン、そしてマックス・フェルスタッペンと後輩たちによって次々と破られていきました。
でもきっと彼ほど多くの人の心を動かすF1レーサーは二度と現れないだろうと思います。
自分にとって一番大切なF1ヒーローはアイルトン・セナだと、今は胸を張って言えます。
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![加藤 猿実(Sarumi Kato)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/58596185/profile_efcacb2c06a09c4cad91139d6bc50d2c.jpeg?width=600&crop=1:1,smart)