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連載小説『この世界に、私の名はない』最終話


──さるきー?

その言葉を口にした瞬間、すべてが歪んだ。

闇の中に沈んでいく感覚。過去の記憶の扉が開きかけた、その瞬間——




病室の白い天井が目に飛び込んできた。

まばたきをするたびに視界がぼやけ、知らない天井が広がる。かすかに薬品の匂いが鼻を刺し、遠くで電子機器の微かなビープ音が聞こえた。

「……ここは……?」

ぼんやりとした視界の中で、天井の白さが目に痛い。かすかに漂う薬品の匂い、機械の規則的な電子音。どこかで聞いたことのある感覚。

これは……病院?

意識が少しずつはっきりしてくると、点滴のチューブが腕に繋がれていることに気づく。身体は重く、指先すら思うように動かない。

思い出そうとするたびに、まるで霧の向こうに手を伸ばしているような気がした。何かがそこにあるのに、指先が触れる前にするりと消えてしまう。

喉はカラカラで、声を出すのも難しい。何かが喉を塞ぎ込むような違和感。

隣のベッドからは静かな呼吸音が漏れ、病室の外では、誰かが慌ただしく話している声が響いてくる。

「大丈夫でしょうか……記憶が……」 「しばらく様子を見て……」

扉の隙間から光が漏れ、人影が動く。

ゆっくりと顔を横に向ける。窓際には小さな猿のぬいぐるみがぽつんと置かれていた。その姿を見た瞬間、胸の奥がざわめいた。

何か大切なことを、忘れている。

だが、思い出せない。

「……目、覚めた?」

驚いて目を向けると、そこに立っていたのは、泣きそうな顔の女性。髪は乱れ、瞳は赤く充血している。まるで何日も泣き続けていたような顔。

「……あなたは……?」

声が出た。自分のものとは思えないほど、かすれた声だった。

女性の唇がかすかに震えた。しかし、言葉は発さず、ただ静かに手を伸ばし、私の手を包み込むように握った。

温かい。

その感触に、何かが胸を突く。

彼女の目は、私を見つめながらもどこか遠くを見ているよう。嬉しさと不安がないまぜになったような視線。唇がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。

猿のぬいぐるみに視線を向ける。動かない指先の代わりに、視線だけがその姿を追いかけた。

指先にわずかな震えが走る。動かそうとするも、力が入らない。それでも、何かが心の奥底に引っかかるような感覚だけが残る。

目を閉じると、ふと脳裏に浮かぶのは、雨音と、幼い頃の自分。

──はる。

でも、その断片はすぐに霧散してしまった。

ここは本当に現実なのか? それとも、まだ夢の中なのか?

遠くで、誰かがすすり泣く音が聞こえる。

ぼんやりとした意識の中で、猿のぬいぐるみを見つめる。記憶のどこかに引っかかる感覚があるが、思い出せない。

そっと瞼を閉じる。その刹那、窓の外から吹き込んだ風が、ぬいぐるみの毛並みを微かに揺らした。ほんの一瞬だけど、まるでそれが何かを伝えようとしているように思えた。私は再び目を閉じる——その名前を、確かに知っている気がした。

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