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ジョージ・オーウェル「1984」と司馬遼太郎「胡蝶の夢」の共通点

僕の好きな本に一つにジョージ・オーウェルの「1984」と司馬遼太郎の「胡蝶の夢」がある。全然違う小説のように見えるが、なぜこの二つの本を並べているのか。2つの小説から見えてくる共通点ついて考えてみたいと思う。(ネタバレあります)

以下に簡単に2つの小説の要素を整理してみた。どちらの小説も他に色々書きたい要素はあるのだが、多すぎるとわかりにくいので簡単にした。

独断と偏見に基づく、2つの小説の世界観
  1.  支配的勢力はどちらの小説でも1強となっている。「1984」においては、ビッグブラザー率いる党の独裁体制であり、徹底した監視社会であり、思想や言語まで管理下に置こうとしている。
    「胡蝶の夢」では言わずと知れたで江戸幕府による封建社会体制である。

  2.  支配的勢力の力には差がある。「1984」では世界の勢力は3つ(オセアニア、ユーラシア、イースタシア)に分かれて、且つその力は均衡している。つまり、自国より強大な支配的勢力は無い。

    一方で「胡蝶の夢」における江戸幕府は外国からの圧力に晒されて、且つ内部からも突き上げを食らっているという支配力の弱まっている状態である。

  3.  被支配者への圧力(統治方法)についても印象的であったため、ざっくり比較してみた。

     「1984」では庶民の文化的/教育的/生産的な水準の向上に寄与する余剰生産や技術革新はすべて戦争継続のために利用されることで、庶民は生活は常に貧窮の範囲内に置かれていた。
    小説内では貧困と無知を基盤として社会/体制の安定が成り立つ、との党の考えによって、意図的に貧困と無知状態が作られている。(庶民が読み書きを覚えると支配勢力に対抗する力になると党は考えている)

     「胡蝶の夢」では、幕末で外国からの圧力に晒されていることから、幕府は軍事技術の革新に腐心している様子が描かれている。ただ、江戸時代を通してみると、幕府は被支配者である各大名や藩の力を削ぐために、参勤交代による財政圧迫や大船建造禁止による非効率を敢えて押し付けることで、大名の力を増すような産業的成長を抑えていたと考えられる。

     いずれの小説でも被支配者を財政的に圧迫することで対抗する力を押させている。また、いずれのケースでも戦争や参勤交代という大義名分に基づき圧迫を実行しているという点には共通点を感じた。

  4. 思想・思考について考えてみる。「1984」ではイングソックという独自の社会主義?体制に加えて、被支配者層に浸透させようとしている新しい言語として"ニュースピーク"というものが登場する。

    "ニュースピーク"は思考の範囲を縮小し、支配者の提示するイデオロギーに則った思考しかできなくすることを目的としているとされる。人々の最も日常的に使う言語を通して、支配者体制をあたりまえのものとして刷り込んでしまおうというものなのだと思う。(支配されていると思考することすらできない状態にするのが党の最終目標だと考えられる)

    「胡蝶の夢」において、新しい言語を作ってまで支配体制を肯定する動きは無い。ただし、江戸幕府は身分封建制での支配を確かなものとするため、朱子学を採用しており、本小説ではその強い影響や崩れ行くさまが描かれている。(商人や農民までの浸透度は不明)

  5. 主人公について、「1984」と「胡蝶の夢」の主人公はいずれも社会体制内部にはいるものの、何か不合理なものを感じて体制に(結末は違えど)挑んでいくのである。

ここまで2つの小説を比較して、世界観の共通点がある程度見えてきたと思
う。

 まず、主人公たちの対峙する幕府や党といった強大な権力は、徹底した管理・弾圧、もしくは思想・宗教(あるいは言語)によって、その体制をあたりまえのものとして認識させることで体制を維持していたこと。

結末は違えど、2つの小説はそのあたりまえに挑む主人公たちの物語なのである。一方は激しい弾圧のもとに夢半ばで終わり、一方は時代の潮流も後押しして1つの社会としての江戸幕府(時代)は崩壊し、新しい秩序の形成に向けて動き出すところで終わる。

ここから考えられることとしては、①支配とは、監視・弾圧といった物理的なを招く統治から、最終的には思想や言語といった、より無意識に近い・深いレベルでの支配を志向していく。そして、②支配者側に対する戦いとは、その社会のあたりまえとなっている思想や言語を含む思考様式に疑いを向けることなのだと思う。

なんだか物騒な書きっぷりになってきたが、別に僕は現在の社会に強い不満があるとかではない。むしろ国・地域・家族にも恵まれ、現状を気にいってすらいる。
ただ、ぼくたちの社会のあたりまえの皮を向いていった中には何が入っているのかが気になるのである。

このあたりまえについて現代社会ではどのようなものがあるのか、時間があるときにもう少し考えてみたい。

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