戦場のジーニャ
おそらくここ最近でいちばんの凄まじいドキュメンタリー。
そこに描かれてるのは元さまざまな職業人だった兵士たち。戦場の現実。
元映像技師は、djiのドローンで敵兵の上に爆弾を落とす。
地面に降り立った兵士は敵の地雷で一歩目でその踏み込んだ足を弾け飛ばす。
殺さなければ殺される。この言葉に重みを持たせてしまう現実で日々生きている人達が映っていた。
いちばんの厳しかったのが元々の職業が描かれていた事だ。彼らにも元々の生活、人生があった。その人生で培ったもので社会を回していた。それが全て戦争に集約されていた。無駄なく、確実に今までの技術が活かせる場所にいる。
鉄道技師は爆弾を作っていた。
何かのために、人々の生活のために行ってきた、繋がりは見えないけれど、大きな幸せにつながると想像してやってきた仕事が皮肉にも戦争で結びついていた。
生きるためにその技術を必死に戦争で活かせるように努力していた。
やりたいじゃなく、やらなければ、そしてそれもやりたいに変わる。
元の生活に戻るのは、人と環境。環境は戻せても人が戻らない。
口が吹き飛んだ兵士、ミンチになった足、煙で映らない吹き飛ばされた人々。
あらゆる技術や物が人を殺し合うために集約していた。
昔兵器のかっこよさと、その用途の残虐性に悩む人がいた。戦争は人の積み上げてきた物を発揮するこれ以上ない場所だった。本当に皮肉だ。
僕らからしたらウクライナ戦争は長いなと感じる物だ。
おそらく飽きている人、いつまでやってんだと、どこかの町の喧嘩のように捉えてる人も少なくない。それは悪いことではない。日本にとってはどうしようもなく遠い国で起きた出来事なのだ。
ただこの映像を見た時、同じ人間として、同じ生活を送ってる人だったとして、この戦争の終結を祈らずにはいられない。
映像の価値を、報道とドキュメンタリーの意味を知らせる作品だった。
カメラの小型化は記録の意味を大きく変えた。戦争においてやはり大きく力を発揮している。ただそれは戦争を伝えるという、戦争を止めるためのものとして機能もしていた。あの戦場で唯一、戦争に刃向かう力を発揮していたと思い、勝手に少し救われた。
これ以上の惨劇が少しでも減ることを祈る。安全な地で彼らの映像を見る卑怯な日本人の祈り。