コストと質の議論では不十分な幼児教育政策と途上国が抱えるジレンマ

こんにちは、サルタックインターンOBの北村健二です。今回は、畠山の「幼児教育が広まれば平等な社会になる、という幻想に騙される世界」という記事で紹介されている、幼児教育に関する記事を執筆します。というのも、「自らの意思や行為に関係なく、生まれた環境によって子ども達の可能性が奪われてしまっている社会を変える」という信条を持つ私にとって、幼児教育は学部時代から扱ってきた研究テーマなのです。修士でのコースワークや修論も幼児教育にフォーカスし、今年の5月から就職したUNICEFのネパール事務所でも主な仕事は幼児教育に関するものです。

1. 幼児教育研究の課題

まず、幼児教育は他の教育セクターに比べ、まだ発展途上の分野です。近年、畠山が記事で言及した研究の影響もあって関心が高まっていますが、この分野の研究には課題が山積しています。幼児教育は研究分野としては新しいものではなく、アメリカ(SRCD)や日本(日本保育学会)などでは1930/40年代から代表的学会、学術誌が存在します。しかし、主なディシプリンは発達心理学や教授法などで、教育政策を射程に入れた研究は多くはありません。

一方で、近年注目されている研究の多くは、教育経済学などで有名な研究者によるもので、介入効果が分析されていても、「なぜ効果があるか」というTheory of Change(TOC)の説明が不十分なものが多いです。去年出版された論文は、メタ分析を通して、幼児教育政策関連の研究でTOCがブラックボックスに包まれてきた歴史的状況が近年でも改善されていないことに警鐘を鳴らしています。これが問題なのは、代表の荒木が記事で解説したように、TOCが明確になっていないものは、研究の外部妥当性(ある研究結果が、他の文脈にも当てはまるのか否かというもの)を論じることが難しいからです。

研究資金は有限であるため、同じような研究を全ての文脈で行うことは不可能です。このため、どのような文脈で行われた研究であっても、TOCを明確化し、そのエビデンスが他の文脈でも応用できるものなのか吟味可能な形にしておくことは重要です。

このように問題を抱える幼児教育政策分野では、発達心理学や教授法などのアプローチの人々がその射程を広げると同時に、教育経済や教育政策の専門家がもっと参入して刺激を加え、相乗的に分野を発展させることが重要です。そこで畠山のような教育経済や教育政策を専門にする人が幼児教育を研究することの意味は大きいと思いますし、幼児教育政策を専門とする私が、畠山の発信活動を批判的に吟味する形で日本における政策議論に貢献していけると良いなと考えています。今回はその第一弾です。

2. “コスト” と “質” の議論では不十分な幼児教育政策

前置きが長くなりましたが、本題に進みます。畠山の記事は、「幼児教育の拡大で社会が平等になるというのは幻想」である主な理由として、質とコストに注目していました。要約すると、よく参照されているアメリカの幼児教育の介入効果は小規模・高コスト・包括的・質が高いという特徴を持ち、これは途上国では実現が難しいということです。

畠山が挙げた点は私も強く同意します。しかし、この論に追加したいのが、「包括的・質が高い」というのは、必要条件であり十分条件ではないというポイントです。そして、注目すべき点として、幼児教育と初等教育の繋がり、幼小接続を取り上げたいです。この記事では、なぜ幼小接続の観点が重要かを主にアメリカの研究を参照しながら考察し、同様の問題を途上国の文脈にも当てはめてみます。

3.時代による文脈の違いが生み出す異なる研究結果

まず、畠山の記事で紹介されているPerry Preschool Program (PPP)、Chicago Child Center (CCC)、Abecedarian (ABC) などの有名な研究は、資金難である途上国の文脈においてだけでなく、現在のアメリカでも妥当性が疑われます。これらの研究は数十年前の文脈における幼児教育の話なので、色々な意味で現在において妥当性が疑われることは当然の話です。現在の多くの幼児教育プロジェクトでは、これらの研究のエビデンスを元に、クラスサイズや保育士の基準、カリキュラムなどが設定されており、そのような意味では「包括的・質が高い」というのは同じです。

一方で、因果推論の前提となる反実仮想が大きく変化しています。具体的に言えば、上記の研究が行われた時よりも、平均的に親の学歴が向上し家庭環境もよくなり、現在途上国でも広く広まりつつあるセサミストリートのような教育番組がたくさんあり、教材もたくさん売られているため、包括的で質が高い幼児教育を受けられなくても幼少期に発達の問題を抱えづらくなっていると考えられます。

この文脈の変化を考えると、幼児教育プログラムにアクセスすることで得られる効果は減少しても、ゼロ、もしくは負の効果は考えにくいです。なぜなら、よほど質に問題がない限り、幼児教育プログラムは同年齢の子ども達や先生など親以外の大人との交流を通した付加価値を生むか、少なくとも家庭での教育を代替すると考えられるからです。

しかし実際は、「包括的・質が高い」と評価されている近年のアメリカの幼児教育に関する複数の研究で、ゼロもしくは負の介入効果が報告されています(畠山の記事にある通り、相関を扱う研究と因果を扱う研究は慎重に分ける必要がありますが、私がここで参照している研究1研究2はどちらもRCTを用いた因果を扱うものです)。厳密にいうと、これらの研究では、3、4歳児を対象とした幼児教育介入はプログラムを卒業する1年後くらいまでは総じて正の効果があるが、Kindergartenや小1、小2と進級するに連れて、介入効果が消滅、もしくは負に転じることが見つかっています。

4. 幼小接続の重要性

なぜPPP、CCC、ABCと同様に「包括的・質が高い」近年の幼児教育の介入効果が、全く異なった結論に至っているのでしょうか。アメリカでは、いくつかの仮説が立てられていますが、結論からいうといずれの仮説も今の所十分にサポートされていません。しかし、これらの仮説は全て幼小接続に関するもので、今後この幼小接続の問題に注目する必要を示唆しています。私が在籍したコロンビア大学の教授も共著者である論文では、これまでの仮説を概観し、検証しようと試みているので、この論文に基づいて仮説を紹介します

1つ目は”授業内容の非継続性(Lack of sustaining classroom instruction)”仮説です。これは、特に貧困層の子どもたちは質の高い幼児教育介入を受けても、その後進学する学校での教育内容が基礎的過ぎて、学びが継続されないというものです。学力試験で一定以上の成績を残さなければならないという教育政策が米国を席巻しました。貧困層の子どもたちが通う学校では、この一定以上の学力基準を達成しなければならないという強いプレッシャーによって、この基準さえクリアすれば良いというインセンティブを持った教員が、かなり基礎的な内容に集中する傾向があります。その結果、幼児教育プログラムにアクセスした子どもにとってはただの繰り返しで、介入効果が消えてしまうという仮説です。

次は“低質な学校教育(Low school quality)”仮説です。これは1つ目の仮説に関連していますが、単純にKindergartenや小学校の質が低いため、子どもたちの学力が低いまま停滞するという説明です。

要約すると、1つ目の仮説は進級後に教育コンテンツのレベルが徐々に上がらずに繰り返しばかりであること、2つ目の仮説では学校の質が低いことが幼児教育の介入効果消滅の原因だと考えられています。これまで、どちらの仮説も十分支持されるだけのエビデンスは報告されていせん。

逆にこれらの仮説を十分に棄却するエビデンスもないため、これらが間違っているという結論づけはできません。これらの仮説は直感的に的外れではないですし、また、PPP、CCC、ABCと最近の幼児教育プログラムとの間でのもう1つの文脈の違いとも合致します。その文脈の違いとは、幼小接続に関するもので、PPP、CCC、ABCでは、幼児教育プログラムに参加した子どもたちは、プログラムに連結された質の高い学校に進学していた一方で、近年のプログラムでは、学校との連結は特別に重視されている訳ではありません。つまり、幼小で連動した質の高い教育を受けることが幼児教育介入の効果が持続するための鍵なのかもしれません。

5. 幼児教育の学校化

この幼小接続を考える際に重要な視点が、単方向的連携か双方向的連携かという点です。双方向というのは、幼児教育において重要視される発達段階に応じた教育(DAP: Developmentally Appropriate Practice)と小学校で重視される学力基準の折り合い取ることを双方が目指す連携です。一方で、単方向というのは、幼児教育か学校教育かどちらかの一方的なニーズに合わせて他方が調整をするというものです。PPP、CCC、ABCでは双方向的連携でしたが、現代では、小学校からの一方的な要請に幼児教育プログラム側が応えなくてはいけない単方向的連携が主流です。

この結果、幼児教育で、小学校受験や進学後の学力テストに向けた準備や、小一の前倒しのような現象が起きており、これを学校化(Schoolification)と呼びます。この学校化は先進国の多くで生じている現象であり、OECDUNESCOの2000年代のレポートでは由々しき事態として警鐘が鳴らされています。学校化が生じている幼児教育プログラムではDAPが崩壊し、子どもたちが発達段階に相応しくない教育を受けることで、過度のストレスに晒されたり、生得的な学びへの好奇心が阻害されたりして、結果的に長期的なラーニングカーブに負の影響が起こる可能性があります。この幼児教育の学校化が、幼児教育の介入効果消滅の3つ目の仮説と考えられますが、この仮説もこれまでのところ十分にはサポートされているとは言えません。

アメリカやイギリスの論文をレビューしたところ、先進国の文脈での幼児教育の学校化の原因が大きく分けて3つあることが分かりました。

まずは、教育アカウンタビリティーの影響です。EFA、MDGsの文脈から、教育へのアクセスは向上しても、子どもたちの学力はなかなか向上せず、学びの貧困(Learning Poverty)と言われる問題を学校セクターだけでは解決できないため、その糸口を幼児教育に見出そうという動きがあります。教育アカウンタビリティーの影響で、試験のための教育(teach to the test) と揶揄される学校教育が、幼児教育にまで降りてきてしまって、DAPの崩壊が進んでいます。

2つ目の原因は、近年の幼児教育効果ディスコースによるものです。畠山の記事で参照されている有名な研究の多くは、幼児教育を受けた子どもたちの学力が向上した、将来の所得が上がった、そして高い社会的リターンがあったという結果を報告するものです。これらの研究は、将来の人的資本として子ども達を幼い時から準備することが幼児教育の目的であるという視点を強めました。この視点自体が悪い訳ではないですが、子どもの発達に関する知識がない人にとっては、将来の人的資本の早期準備=学校教育の前倒し、という軽率な結論づけに繋がり、これもDAPの崩壊を招いています。

3つ目の原因は、公共政策における正当性の問題です。Institutional theoryを用いてこの問題を分析した論文は、幼児教育に比べ、初等教育以降の教育の方が公共政策として扱われる妥当性があり、幼児教育セクターは初等教育セクターの慣習や構造を模倣することで妥当性を高めて、より多くの公的リソースを得ようとしていると論じています。

これら3つのの観点は幼児教育の学校化の原因として直感的にも頷けるものです。

6. 国境を越えて伝染していく教育政策

最後に、この3つの観点は途上国の文脈でもとても重要であることを説明します。まず、現状で、途上国でアメリカほどの教育アカウンタビリティーが存在するところはないでしょう。しかし、global education reform movement (GERM)という、特に英語圏で行われた教育政策が他国へと伝染していくという、近年の国際比較教育学において注目されている現象を考えれば、途上国での教育アカウンタビリティーも(特に外発的に)強力なものになっていくと考えられます。

国際機関やドナーは、介入効果が見られないとお金を付けにくいため、標準化された学力テストの結果を用いて介入効果を測るという仕組みがどんどん増えていくと考えられます。

さらに、幼児教育効果ディスコースは、すでに途上国の文脈にかなり浸透していて、国際的な開発目標にも現れています。2000年のEFA会議では、「総合的な就学前保育・教育の拡大及び改善」というのがゴールの1つであり、行動枠組みでも、幼児教育は 「包括的であり、子ども達のあらゆるニーズに焦点を当てるもの」、そして 「単なる学校教育システムの前倒しではなく、子ども達の年齢に相応しいもの」でなくてはならないとされています。つまり当時は、幼児教育に関してかなり包括的、そしてDAPを大事にするような表現がされていました。

しかし、2015年に発効したSDGsでは、target 4.2で、小学校の準備のために幼児教育へのアクセスを向上することが目的とされています。さらに公共政策における正当性の問題に関してはもっと顕著で、政府の幼児教育セクターと学校教育セクターの予算を見ると、後者にばかり予算がついて、前者には予算がほとんど付いていないというケースも少なくありません。

特に幼児教育効果ディスコースと教育セクター間の正当性の違いによって途上国で近年生じている現象として、幼児教育を学校教育システムの中に統合するという動きがあります。この統合によって、先進国の例と同じように、幼児教育セクターが公的リソースを確保でき、アクセスを拡大することができます。まずは予算がつかないと話が始まらないので、この幼児教育の統合は途上国の政策において有力なものであると言えます。しかし、この制度的統合は幼小の単方向的連携および幼児教育の学校化の問題に繋がる可能性があるという、ジレンマを抱えてしまっているという懸念もあります。

7. 幼児教育政策を議論する上で必要な視点

多くの子どもの発達や幼児教育の専門家は、学校化に対し、アレルギー反応を持ち、強く反対しています。しかし、私は途上国で起こりうるジレンマを乗り越えるためには、学校化の全てを盲目的に批判したり、幼児教育の制度的統合を阻止しようというのは非建設的だと考えています。そのような盲目的批判では、幼児教育セクターに予算がなかなかつかない現状を打破することが難しいからです。

逆に、幼児教育が後の学力や将来の所得、社会的リターンに繋がることは決して否定されるべきものではありません。大事なのは、これらの介入効果を目指した結果、子どもの発達や幼児教育に関して無知な人々だけで幼児教育政策をデザインしDAPが崩壊してしまうことを阻止し、幼小の双方向的連携を目指した建設的取り組みを目指すことです。

私自身、実績も少ない若手ですが、この目的のために修士過程で勉強し、これからは国際機関の実務を通して課題解決策を目指しています。畠山が幼児教育を扱えば、私も多くを学べるチャンスですし、もっと幼児教育の研究者が出てきてライバルや同僚が増えると頼もしいと思っています。



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