函館大火慰霊堂へお参り
父の函館歴史資料に
函館大火の特集がありました。
函館大火は1934年(昭和9年)3月21日に発生。
2166名が亡くなる大惨事。
父も生まれていなかったですが、
父から函館大火の話は聞かされていて
とても恐ろしい事が函館で起きていたんだなぁと思ってましたが写真なども見た事無かったので現実的では無かった。
しかし、父の函館大火の資料や
函館博物館で
函館大火から今年で90年との事で
特別展が開催されていて、
函館大火の遺品や、映像、写真をみて
衝撃でした。
私の生まれ育った函館西部地区は
明治の函館大火により
二十間坂などが幅広に整備された。
そのおかげで昭和9年の函館大火で
二十間坂より西の地域は被害を免れたそう。
この二十間坂が無かったら祖父母も
被害に遭ったら可能性があり
父も私も生まれていなかったかもしれない。
だから二十間坂には感謝。
函館大火の歴史を知り、
函館大火慰霊堂というのがそういえば
あったなと思い出した。
しかし一度も行ったことが無かったので
今回の帰省で訪れました。
小さい頃などはなんかのお寺だと
思っていた。
函館大火慰霊堂は大森公園の中に
あります。
函館大火の被害はこの辺りが一番大きかった。
大森橋に逃げる人が殺到し、
木の橋が崩れて海に投げ出され
凍死した人が多かったそう。
このあたりに慰霊のため、函館大火慰霊堂が
昭和13年に建てられた。
歩道橋から宇賀の浦中学校跡地が
工事中だった。
砂山が凄い。
かつて、ここが砂山と呼ばれてたエリアというのが納得。
函館の歴史本だと砂山は乞食が住んでいたそう。
その後整備されたそうです。
全く知らなかった…。
函館大火慰霊堂へ近づきます。
建物は小南武一という方が設計した
和風コンクリート鉄筋建築で
大火後の昭和13年に建てられた。
横から事務所の入り口があり
インターホンを鳴らします。
「お参りできますか」と伝えると
事務員の方が出てきて
どうぞどうぞと案内されました。
まず奥の函館大火慰霊堂の納骨堂を
案内されました。
たくさんの無縁仏が眠っているそうです。
千羽鶴凄いです。
事務の方が説明してくださいました。
この下にたくさん納骨されてるそう。
写真撮影等OKです。
中は昔の学校みたいだなぁと思い出しました。
本堂には函館大火遭難者の位牌が
ありました。
毎年3月21日は慰霊祭があります。
もう90年経っているので、
遺族はほとんど参加せず
消防の方などが参加と
事務の方が仰っておりました。
毎月21日はお坊さんが来て
お参りしてくれるそうです。
函館大火慰霊堂はふだんは、
体育館として利用され
バトミントンや卓球など🏓。
昨日訪れた際は
卓球をされてるご年配の方が
たくさんで賑わってました。
現在はお参りの方より、
この建物が珍しいと見に来る方が
多いそうです。
和風モダンなコンクリート鉄筋建築が
珍しい。
確かに内部もあまり見たことの無い
作りだなぁと思いました。
素敵です。
函館大火慰霊堂の隣に
記念塔がありました。
事務員の方曰く、
お金持ちの方が私財を投じて
建てたらしいです。
函館はこの昭和9年の函館大火以降
大きな火災は無い。
大火後の道幅が広く整備され、
グリーンベルトが設置。
大火後、それまで地下に設置されていた消火栓が雪の時期でも使いやすいように地上に突き出し黄色い分かりやすい消火栓が設置され
大火に強い街づくりに。
実は私の実家の物置が
風の強い日に漏電で火事になったことがあった。
強風で火の勢いが凄かったのですが
幸い消火が早くてこの地上に設置された
消火栓のおかげだと思います。
ちなみに道新の函館版に掲載され、
野次馬で規制線が張られた
中々の火事であった。
私はお風呂に入ってる時に、
近所の人が火事だ!逃げろ!と
叫び声が聞こえ慌てて風呂から上がり着替えました。
火の勢いと熱さが本当怖かった。
父は仕事中で、
帰ってくる時に規制線が張られていたので
野次馬に聞いたら
「〇〇さん家が燃えた」と聞かされ
もうびっくりしたそうです。
私は怖すぎて家で寝れず
友人宅に泊まらせてもらいました。
火事は恐ろしいので気をつけましょう。
今回の函館大火慰霊堂は
YouTubeでも紹介してます。
「サロンの函館歴史散歩」という
YouTubeチャンネル始めたので
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