男はなぜ私の前に現れたのか『白い牛のバラッド』スタッフブログ
『白い牛のバラッド』スタッフブログ
冤罪で夫を亡くし、未亡人となった女性がイランで生きていくことがどれほど辛いか。
見知らぬ男を家に入れたのを見られただけで借家を追い出されたり、不動産屋からは麻薬患者などと並んで未亡人に部屋は貸せないという。
夫の家族からは賠償金目当てに同居を迫られたり、ビダの親権を要求されたりする。
そうした暮らしの中にあってレザの登場は「神様が親切な友人を理由もなくくださったのね」との言葉どおり、思わぬ僥倖だったのだろうと思います。
しかし、レザにはそうしなければならない理由があった。
日本と同様、世界的に少数派となりつつある死刑制度を持つイランにおいて、この作品の投げかける死刑制度の不可逆性に対する問題提起は当局にとって触れてほしくない問題であるに違いなく、本国での正式な上映許可は下りず、3回しか上映されていないとのこと。
しかし、上映許可が下りない理由は死刑制度に切り込む部分だけではないと感じます。
レザの登場により、ミナは心の拠り所を得て、夫を亡くした喪失感からようやく回復する兆しが見えてきた。
レザにはビダも懐いてきた。
レザにとってもミナに優しくすることは彼の心を平穏に保つためには必要なことだった。
レザにはまた物語の途中で大きな試練が待ち受ける。
双方にとって次第に親密さとかけがえのない関係に近づきつつある様子は、イラン映画的にはちょっと踏み込んだ展開といえます。
厳格なイスラム原理主義に基づくイランの体制下では女性が男性社会の中で従属的立場に甘んじなければならず、一旦未亡人となってしまうと、社会的な制約を受けるばかりか、心の自由をも制限されてしまう、ということは大いに問題のあるところでしょう。
未亡人は終生“貞淑な妻”でなければならないのか?
レザの隠された事実をミナが知ったとき、ミナの下す決断は、イスラム社会の中での規範と自身の心の内にある葛藤に対してケリをつけなければならない問題だった。
ミナが最終的に選んだ決断に対し、観る者がどう感じるか?
いかにもイラン的結末という印象がないわけではありませんが、ミナの迫られた選択はイスラム的であろうとなかろうと、夫婦の関係においては難しい問題には違いないだろうと思うのです。
普通の世俗国家であれば、当事者たちの間で問題が解決できれば、それが社会的に問題とされることはないと思われますが、しかし、これはイランという国での問題として考えるなら、事はそう単純な問題ではなくなるかもしれない。
この作品は観る者にミナの決断についてどのように考えるかを必然的に迫るものであり、価値観のブレを生み出すことそのものが“イスラム共和国”的には社会の平穏を乱す潜在的な脅威と感じるのではないか。
そうしたところに上映許可が下りない大きな理由が潜んでいると思うのです。
監督のインタビューによると、「白い牛は死を宣告された無実の人間のメタファー」
映画の冒頭に掲げられるコーランの一節に登場する雌牛は「同害報復刑を意味するシャリーア(イスラム法)用語」とのこと。
映画を観終わってみると、このメタファーの重さが改めて思い起こされるのでした。
映画『白い牛のバラッド』作品情報
2022/3/18(金)~3/31(木)まで上映
3/18(金)~3/24(木)まで
①12:00~13:50
3/25(金)~3/31(木)まで
①10:10~12:00