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[短編小説]泳ぐ夏 #絵から小説

夏の太陽が高いところから青くて四角いプールを照らしている。
その光が風でざらざらと波うった水面をキラッとさせていた。

通い慣れたプールの端っこにある銀色のハシゴを後ろ向きに降りる。
足の先からの冷たい違和感。
肩まで水に浸かった開放感。
頭まで潜った安心感。
普段は感じることのできない感覚に順に包まれていく。

白いロープで仕切られたコースの始まりに立って、まっすぐ対面の壁のゴールを見つめた。
鼻からスゥと空気を吸うと塩素の匂い。

泳ぎだしにぐっと姿勢を低くして、壁をおもいきり蹴って勢いをつけた。
頭の前に手を重ねて、魚のようにぐーんと進む。
ゴーグル越しに歪んだプール床の線に目をやった。
グングンと視界が前進していく。
聴力は鈍くなってゴボっという水の音しか聞き取らない。
余計な声を聞かなくて済むと思うと気が楽だった。

もう壁を蹴った勢いがなくなりそうになったときに、やっと身体を動かし始める。
水を腕全体でかいて足をバタつかせながら、身体が脳の命令じゃなく勝手に動いているように感じていた。

苦しくなってきたから、水面から横向きに顔を出した。
息継ぎは苦手だ。
水が口に入ってきたり、鼻の奥がツンとしたりで上手にできないけど、不思議なことに息を吐ききったら自然に次の空気が肺に入ってくる。

クロールをしながら、私には水の中以外でも息が苦しくなることがあるのを思い出していた。
陸上での苦しさと水中の苦しさを比べると、自分でコントロールできるものとそうでないものは大きく違うんだと確信を持った。
水中のほうがずっとましだった。だって息継ぎをすればいいんだから。

一か月かけて25mが泳げるようになって、その確信は私の中だけでゆるやかに変化していった。
手足を動かせば前に進めるし、息を吐ききったら新鮮な空気が入ってくる。
泳ぐことは私にそれを教えてくれた。

身体がないと私は存在することができないのだから、身体で感じたことそれが真実だ。
だから、もうこの場所に留まる必要はないと思った。
私は自分のちからで別の場所へ行ける。

***

 私が教室へ入れなくなったのは、去年の体育祭のクラス対抗リレーでバトンを落としたことがきっかけだった。

 小さな頃から『由美は運動神経がない』と言われて育ったから、クラスメイトの男子の「あいつがバトン落とさなければ、勝てたのに」なんて言葉どうってことないと思った。

 けれどそれを聞いてしまった私の身体は過敏に反応してしまった。心臓の鼓動がドクドクと速くなって呼吸が苦しくなり、視界が暗闇になった。私の存在に気づいたクラスメイトの彼が取り繕うように言った「残念だったな」という文字面だけが宙を舞っていた。

 教室に入れなくてもせめて学校には行った方がいいという家族の願いで、今は保健室に登校している。お父さんもお母さんもとてもやさしいひとだ。でも、やさしさは目に見えないぶん厄介だと思う。家族は私のことを過保護に扱うようになった。まるで私がひとりでは何もできない幼い子供みたいに。

 私は家族のやさしさに溺れそうになっていた。家でも学校でも呼吸がうまくできない。15年間生きてきてはじめて、生きていることが苦しいと思っていた。

***

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 今、保健室には私と後輩の聡子ちゃんしかいない。

「もう、学校に来るのは止める」

 聡子ちゃんに昨日プールで決めたことを打ち明けた。言ってしまったことにドキドキして自然に口角が上がっているのを感じる。なんだか晴れやかな気持ちだった。

「決めたの?」
「泳げるようになったから」
「なんだか、由美先輩らしいよ」
「私らしいって?」
「ちゃんと、流されずに自分に向き合おうとしてるってこと」

 そんなことはないと思うのだけれど、私はどちらかというと流されてここに行き着いた気がする。

 聡子ちゃんは子供っぽい私の顔と違って、目鼻立ちがスッキリした大人の雰囲気がある。1つ後輩なんだけど、ショートボブと悲しい感じのする瞳が余計にそう思わせるのかもしれなかった。前に聞いたときには、お父さんの都合で転校してきてクラスに馴染めなくて、保健室登校をするようになったと教えてくれた。

 聡子ちゃんは何かを思い出すように、保健室の壁を見つめながら言った。
「わたし、引っ越したくないって言えばよかったって、あの時言えなかったことを何度も後悔してる。」

 私には後悔が何度も蘇ってくるその感覚を知っていた。バトンを落としたときを思い出して苦しくなった。思わずぎゅうと重くなった場所に手をあてる。ちょうど鎖骨の始まりあたりだ。

「ねえ、聡子ちゃん。今度、一緒にプールいこう」

 自然にプールに誘う言葉がこぼれ出ていた。プールの水は私を包み込んでくれて体は軽いし、手足を動かせば自分の行きたいところへ行ける。息だって吐ききれば、吸おうと意識しなくても身体に空気が入ってくるんだ。そうやって水は私の背中を押してくれる。言葉では上手く伝えられないけど、聡子ちゃんにもそういう気持ちを感じてほしかった。

 小さい頃から周りに言われてきた『由美は運動神経がない』という何気ない言葉が私を無能にさせていたんだと思う。もちろんオリンピック選手並みには無理だけど、人と比べなければ自分はもっともっといろんなことができるはずだ。

「いやかな?泳ぐの嫌い?」
「うんん。私泳げないから、泳げるようになりたい。夏休みが始まったらつれてほしいです!」
「もちろん。泳ぎ方もちゃんと息継ぎの仕方も教えるよ」

 後ろをばっかり振り返っていたら、どこにも行けない。もう元には戻れないのなら、手足を動かして、呼吸をして前に進みたい。

おわり

 清世様の素敵企画 #絵から小説 に参加させていただきました。色々考えて楽しかったです!機会をいただきありがとうございます。お題の絵Aの髪の長い女の子の希望を感じる表情と、対照的なボブの女の子の表情すごく想像力を掻き立てられました。

 精神と身体は別のもののようだけれど、身体から精神は離せないものだから、もっと身体が感じることの方に注目したらどうかとオリンピックに影響されて思ったのでテーマにしました。

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