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ながめせしまに

豊かな自然を見るのが好き、街並みを鑑賞しながら歩くのが好き、どこかの誰かが言っているのを何回聞いただろう。つい数年前まではいまいちその感覚が分からなかった。ただ、あまりにもよく聞くものだからきれいと言われるものが何なのかは理解していた。空気が澄んだ山の上から見える満天の星空、千年もの歴史を誇る京都の風情ある街並み、遠くにあるはずの底がすぐ近くに感じられるほど透き通った真っ青な海。これらがいわゆる「きれい」と人が言うものだとは理解していて、周りに置いていかれないように適当に話を合わせることはできた。でも、いつまでたっても人が言う「心が揺さぶられる」感覚を得ることはできなかった。

転機が訪れたのは4年前、父が突然死んで、莫大な借金があることが判明して、大学に行けるかもわからないまま受験をして第一志望の大学に落ちて、母が聞いたことのないキリスト教の一派にはまり始めた時、さすがに図太い私の精神もだんだんと悲鳴を上げ始めた。といっても当時は長女の私がしっかりしなければという責任感が勝って、あまり辛いとか悲しいとかは感じていなかった。現に父が死んでからほとんど泣いていなかった。私は精神が強いなあなんてのんきに思っていた。

バイトでクタクタになったある日の帰り道、50mはあるだろうか、とにかく身を投げれば絶対に生きて帰れないであろう高さの橋を渡った。ふと橋の下を見下ろすといつも通りの淀んだ湖が遥か下に広がっていた。突然どうしてもそこから飛び降りたい衝動に駆られた。自然とそうすれば楽になれると思った。衝動に任せて荷物をその辺にかなぐり捨て、橋の柵を乗り越えた。すぐに飛び降りはせずに、30cmほどの出っ張った足場に腰を掛けて空を見上げた。そこには満点の星空と細い下弦の月がきらめいていた。はじめて空がきれいだと思った。目に涙があふれてきた。まるで台風の後に放出されるダムの水かのように大量に。涙でぼやける星空や周りの木々はポラロイドの写真のようですごくきれいだった。今から別れを告げる世界が最後のプレゼントをくれた、そんな気がした。神様が居るのかは知らないけど死者が行く世界があったら嬉しいなあなんて物思いにふけった。どれくらいたっただろうか。涙を拭くと想像より30度傾いた腕時計の文字盤が目に飛び込んできて我に返った。自分の足元を見て驚愕した。一周回って笑えるくらい足がすくんだ。早く帰らないと。ぶるぶる震えながら柵を乗り越えて元の道路に戻った。

道路に戻ってからは、特段景色がきれいだとは思わなかった。というよりは、「何をやっているんだろう」という思いが先行して景色にまで意識が向かなかった。次の日からも特に景色に興味は湧かなかった。ただ時々、どうしようもなく泣きたくて、この世から消えたい時、世界はきれいなんだと気づかされる。

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