(責任とりたくない)

忙しいよね。

この案件が終わったらあっちの案件を片付けなきゃならない。
今日はあそこに行ったら、こっちにも寄らなきゃ。
ああ、あのメール返事しなきゃ、洗濯ものも溜まってたっけ・・

ひとつひとつの事柄が矢のように過ぎてゆく。
矢のようにこなしてるオレ、ワタシ、って結構有能だよね。

結果、

・・・

う、薄い!

ここまで前フリ。

これは、仕事の打ち合わせでよく感じる事柄です。具体的にはライブや作品作りなどの不定形かつ、正解もなく、それでいて対価を払って下さるオーディエンスがいる案件です。

共同作業ですから自分の担当以外の事は、その担当の方の考えを尊重したいのです。逆に自分の担当の事はちゃんとやりたい。
ちゃんとやるためには必要な情報があるのだけど、それを聞くとその方にはおそらく重要な情報ではないので、余計な気遣いが混ざって返ってくる。忙しそうにしつつ。
それが重なると、「めんどくさいやつ」と言われないまでも、そんなこといいじゃん。的な圧を感じる時もある。

てな事は長年経てきているので、今更どうという事もないのだが、
その”余計な気遣い”で、この頃実に多いのが、(責任とりたくない)感だ。

その人の経験と感性が宿っているのだから、言い方はアレだけど、時に仕事は適当でいいと思っている。
その適当な部分を聞いてしまったのか、慌てて取り繕う感じ。言外に(責任とりたくない)が宿っている。
言い訳ともいう。
それいらない。時間とその人の気遣いの無駄だ。

なんであれ責任持って臨め。と結ぶ事もできるのだけど、おそらく違うと思っている。
違うと感じる理由は3つ。

1つ目は前フリで書いた、近年私たちを包んでいる忙しさ。
こちらの案件とあちらの案件と進めなきゃいけない事がお手玉状態になってる。そこに洗濯とか、明日でもなんとかなる事も混ざって、必要以上に重たくなってるのかもしれない。
そして優先してやるべきことが薄くなってしまう。

2つ目、日本社会に広がる自己責任論。事なかれ主義。
失敗しても許される余裕がこの社会になくなって久しい。
また各個人が失敗した時、それを肯定して受け入れてくれる身近な存在がいないか遠いのかもしれない。
SNS時代で繋がりはあっても、それって自分を許してくれる人がそばにいてくれる事の代わりにはならないよね。
そういった家族や仲間がいてくれることはその人の言動に深くかかわってる気がする。
失敗にならないよう、どうとでも取れる薄い返しになりそう。

3つ目、他人の視点を想像しない
自分の価値観に縛られて、そこで決断しないといけない緊張感を避けたいのかも。
周り、いやメディアかな、にいくらでもつるし上げに遭う人を日々目にする。そうゆう風景を眺めていると、定型としてのお決まりのダメ出しコースみたいなのが潜在的に出来上がるよね。
まぁそこまでは2つ目に属するのだけど、特に表現を形にする作業では、自分が理解できない視点がある前提があるかどうか。

こう書くとこうゆう反応だよね、こう弾くとこう受け取られるよね。
そうゆうものが定型化した作品のなんてつまらない事か。
一緒に作業する人間はあなたのいいところに乗っかりたいのです。 

理解できない受け取り方は、理解しなくていいんじゃないかな。
ましてや理解できないものを排除してつくられるものは、何をかいわんや。
薄いよね。

以上3つ。
別に表現活動に限らず、近頃感じる(責任取りたくない)空気感で思う事をつらつらと書きました。

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