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恋心が薄れたのは老いでも飽きでもない

いつもお世話になっております。早見更紗です。
夢女の「好き」と一般的なオタクの「好き」はどう違うのでしょうか。
今日はそんな話。

100人オタクがいたら、100通りの「好き」があると思うのです。
もっぱら夢女の私のことを皆さんはどう評価しているのでしょうか。
特定の推しに対して「恋愛感情」的な気持ちを抱いて生きていると思われているような気がしています。

まああながち間違ってはいないのですが。
最近の私は、とにかく彼のことを応援することが楽しいのと同時に、夢小説を書かなくなってしまいました。あんなに書いていたのに。

自分の中から生まれる感情が「ファンとして好き」しかない毎日に、なんだか気持ちが薄れたような気がして劣等感を感じていました。
多分、「好き」という気持ちに優劣をつけていたからです。
恋心のような「好き」が推しというなにかへの感情の最大級だと思い込んでいた私は、不安で寂しくて、このまま放っておいたら何かを好きになるという気持ちを失ってしまうのではないか。
彼への感情はこのままなくなってしまうのではないか、そう思っていました。

そもそも私が好きになった彼は「私の中の彼」なのかもしれない。
夢小説を漁って、なんか違うな~ってことありますよね。そういうこと(?)
私の中の彼が私に意識を向けてくれる世界が好きだったのかも。

年を重ねるにつれて、この恋心のような「好き」はだんだん薄れていきました。そしてそこを埋めるかのようにファンとしての好きという感情を自覚しはじめました。

私が年を取ったからこう考えるようになったのか、例えば推しと年齢差が広がったり、大の大人がいつまでも推しに恋心を抱いているなんて恥ずかしいという気持ちから起こった現象なのか。
いや、違う。私はこれを定義したい。

「ファンとして好き」という感情が増えたのは、より一層彼のことを知ろうとした結果だと考えます。

あんなにも素敵で、他人から愛されて、他人を愛して、自らの手で幸せな人生を掴んでいる。
彼のことを好きな人がこの世にたくさんいるということを知っている。
誰からも愛される素晴らしい人間だということを私は知っている。
そんな彼の解像度が増したからこそ、応援したいという気持ちに変化したのではないかと考えています。

いや、そんなものは言い訳で、結局は叶わない気持ちに折り合いをつけて自分を守るための自己洗脳だろって心の悪魔が囁くことはたまにありますが、うるせえ、いいのです。
そもそも恋愛感情なんてものは洗脳に近いし、私がいいと言ったらいいのです。ただ、これを私の中で定義したい。それだけなのです。

だから私はこの応援したい「好き」にとても満足しているし自信があります。好きに優劣を決める必要はない、恋心じゃなくたっていい。
一番大切なのは、自然体で好きといえること、オタクしている人生が幸せであることだと思います。
感情は変化するものですよね、明日も明後日も、私の「好き」が変化しても、ずっと好きって言えたらいいな。宇宙一好きだぞ、推し。


ただし、夢小説はたまに読みます。


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