言語化できないこと、新しいエンタメの形
どうしても言語化、象徴化が難しいことがよく起こる。僕は物心がついた頃からずっと、人と遊んだ後に砂漠のように身体がカラカラする感覚というか、カーっとする感じというか、そういう感覚に襲われる。不快な感覚ではあるから、多分対人関係において何らかの不具合が起こっていることは間違いないんだけど、それが何かよくわからないから、いろんな人に会ってみて差異をつけたいと思うんだけど、まだ経験が浅いからかよくわからないし、この感覚がある、ないだけでは結局それがどういう意味をなすのかもよくわからないという問題もある。別に不快な感覚はあるものの、他のところで、この人良いなとか、感謝できるなとか、そういう気持ちも持っているからますますよくわからない。不快なだけなら距離を置くだけでいいんだけど、どっちもあるし不快な方が何かがわからない。こんな感じで、どう人と関わればいいかの指針が故障しているので、それをなんとかいろんな角度から治したいと思って、いろいろ考えたり、変なこと試したりするのかもしれない。「それ意味あるの?」って周りから思われてるのはなんとなくわかるけど、意味あるよって周りが言ってることをやった結果解決しなかった問題だから、意味がないように見えることに何らかの意味を見出していかないと解決できない問題のように僕は思っているんだと思う。
人間って本当に不思議な存在なのに、その不思議さを無理に抽象化して部分だけを見て共有しているのが、真理ドリブンの考え方からしたら全くおかしいことだと思うんだけど、まぁ人間っていうのは本質を求めるよりも社会的な生活を営むためにデザインされているからその名残の中で今の時代に合っていない部分があるっていうのはよく言われることである。youtubeで、毎日4本くらいコカ・コーラを飲む町を取材するという動画があって、ヤラセかフィクションなんじゃないかと思うくらい洗脳されたとんでもない町があってびっくりしたのだが、社会的にこういうものだという認識があれば、産まれてからそれが当たり前の営みとしてあったならば、それが悪いことだとわからないまま育ってしまうということが起こりえる。コカ・コーラを毎日4本も飲んでたら感覚的に不快な症状が出てもおかしくないというか出てると思うんだけど、それがずっと続いているから、人間の身体ってこんな感じだよねって受け入れてしまっているんだと思う。僕も、言語化できない病名化されない謎のメンタルの不具合に対して、そんなに敏感に注意を向けることが少ないように感じる。社会的にこういう症状って見られないから、別に異常なことではないと認識するというか。ずっとリラックスできない状態とか、ちょっと意識がないような感じがするとか、そういうはっきりと言語化できない感覚って、あんまり議論の土俵に出てこなかったりする。土俵に立てない感覚を持っているということが、孤独を促進するのかもしれない、そんなことも思ってしまう。
ゆっくりとした変化も、正確に言語化できないことのひとつだ。(というか、言語化しなくても良いと思われているかもしれない)例えば、食べ物を食べた後に「おいしいー」ということができるけど、「おいしい!……ちょっとおいしさがなくなった、味がしなくなった、味が少し口に残っているかもしれない」とか、いちいち言語化しない。けれど、「美味しかった」という語りは、そのフローの知覚も大事な要素なんじゃないか、と思う。言語化されないことを、どれだけ知ったと思っているか、切り取られた世界の後の世界をどれだけ知ろうと努力しているか、これは見逃されやすい問題である。人間の意識は、そんなに複数の視点から知覚することができないため、ある部分を切り取ると他の部分の知覚が疎かになる。でも切り取らないとおはなしにならない。その切り取られた部分から語られるのが言語だからである。けれど、この切り取り方の前提に対して注意を向けることで、より新しい可能性が開けてくるし、正しさもここにあるかもしれないと思うんだけど、時間という制約がある以上どこかを選ばないと場がもたないという限界を常に抱えているのがこの世界の特徴である。
「社会を理解したい」「自分を肯定したい」というバイアスを人間は常に持っているから、これに対して直観的に語り掛けるように抽象的に圧縮された情報を提供する詐欺まがいなインフルエンサーが人気を得ることも、自然の摂理であるように感じる。でも僕はそういうバイアスが弱いからこそ、本質を求める欲求が強いからこそ、みんなと別の道の思考方法で対象と触れ合うような人間になっている、ということなのだろう。これと同じ考え方の人は社会に少ないし、人気にもならないし、影響力も持たないけれど、テレビから一歩離れた界隈とかにはいるんだろうなと思う。哲学者とか研究者とかね。そういった考え方を持つ人達がつくるエンタメってどんな形になるんだろうとか考えるんだけど、この二つの界隈は仲が悪いという問題があるし、本質を追求したい人がくだらないエンタメに時間を費やしたくないという問題もある。
生成AIによって生成された動画は、そういう限界をいろいろ突破してくれるんじゃないか、と期待している。「この賢そうな哲学者がゲーム実況とかやったらどんな感じになるんだろう」とか、みなさん考えたことはないだろうか。「詩的な言葉をよく使う小説家のアニメキャラがバラエティのひな壇にあがったら?」「めちゃくちゃ知識豊富な人が感動できるギャルゲーを創ったらどうなるのか?」まだ無い(あるいはあっても両方持っている人間が少ない)組み合わせで描かれる世界はどんな世界なんだろう?好奇心は尽きない。そしてその後に、それを人間が自然だと思えるか、それに愛着が湧くか、という問題も待ち構えている。最近ヒカルを見てて思うのは、もっとエンタメは、アートや知性や穏やかさと結びついてほしい、ということである。それは、最近のヒカルが少し知性と結びつき始めて、エンタメの新しいオルタナティブの萌芽を見たことがきっかけだ。エンタメをつくる人って賢くないよね、経営の知識とかないよね、こういう前提を突破してくれた。もちろん経営の知識のある芸人とかいただろうけど、それを全面に押し出しているかとか、僕にとって親しみやすい性格との組み合わせでそれを表現してくれてはいなかったとか、そういうところがあった。これを始めとして、新しいエンタメの形は無限につくれるという可能性に気づいてきた。知性とエンタメはまだ喧嘩しないところにいる気がするけど、エンタメとアート、エンタメと穏やかさ(繊細さ)は、ちょっと喧嘩するところにあると感じる。他に喧嘩する組み合わせをchatgptに聞いてみた。
見ているメディアがテレビだと、マスに媚びた短期的な面白さを重視している番組が多く、これらの仲の悪い融合をしてそれぞれを繋げてみようという試みは少ないように感じる。youtubeだと、1000人が見て面白いと思える番組をつくれば、クリエイターの想い次第でコンテンツが成立するというところがあるから、そういう意味でyoutubeはエンタメを多様化したと思うし、だから僕はテレビよりもyoutubeや個人がやってる生配信とかの方が好きである。昔のテレビは確かに今より面白かったとは思うけど、こういう多様性のあるyoutubeの方が面白味を感じる。で、これからは生成AIが出てきて、それがもっと多様化すると思う。それがとても楽しみである。個人的には、エンタメにもっと、味わい深さや自然との共鳴や詩的な表現を付与して、もう少し金女人気ドーパミンってせずに、奥深い世界を楽しむ方向で楽しみたいと思う。どう融合できるのかはわからないし、そういった難しいものを組み合わせようと工夫して努力してもそれでは数字がとれないと思うから誰も試みなかっただけで、数字なんか気にせず、人間がやるよりも早いスピードでAIが生成できるようになったとしたら、もっと多様なものが生まれるんじゃないだろうか。夢物語かもしれないけど、こういう未来もあり得るかもしれない。
「今まで感じたことのない喜びを創造する」ということに関して、人間の能力はとても貧弱であると思う。最近出るゲームも、結局は既存の組み合わせがほとんど。「こんな感覚初めて!」を目指すゲームはことごとく失敗してるイメージだ。その辺はAIさんの力を借りていきたいところである。僕はそれは、人間の感覚器官が拡張される方が先ではないと信じている。本当に自分にとって価値があるものに対して人生の時間を使えるように、その助けとしてAIが良く機能してくれたら嬉しいなと思う。言語化できない「空気感」みたいなものも、うまく演出してくれたらより人間の知性を超えたエンタメになると思う。