思索は…

謎の思索をこのnoteではたまにやってきた。最近、新たにまた3万文字くらい思索を書いていて、それを読み返して結局何を僕は考えているのかと冷静に俯瞰してみたら、もう思索する気力が完全に失せてしまった。僕は特別に真理を求めているとか考えるのが好きというわけでもなく、単純に自分の意見を話したいとか、整理したいとか、成長したいとか、世界を理解したいとか、フィードバックを貰いたいとか思っているだけだった。単純に孤独ゆえ、僕の意見を聞いてくれる人がこのホワイトキャンパスしかなくて、フィードバックも自分で俯瞰して見つめるくらいしか方法がないだけだった。誰も僕の気持ちを理解してくれないから、自分で全部やる必要があっただけだった。

感情学習に失敗した僕は、認知の歪みを修正するために多角的に物事を考えることを後天的に強いられ、それによってどの点に感情を置けばいいのかについて全く直観的に理解できなくなっていった。感情というのは多角的な考え方をしている時に主体性を持たない(言い方があってるかわからないが)から、最終的にどこかの点に着地しないといけないんだけど、この作業を全て一人でキャンパスの上でやるのは無理があるということに気づいてきた。何度も何度も自分を批判的な思考で見つめ直さないと、正しい感情体験にたどり着かないことの苦しみは、まぁまぁ心を疲弊させていた。感情というのは、人との関わりや共感によって生まれるものなのに、それ抜きに思索していてもそれは人に見せられるものではないし、どれだけ頑張っても質の低い一人セラピーの領域に過ぎないことに気づいてしまった。

純粋に日常会話ができる人を見つけるのは意外に難しい(純粋な日常会話ってなんだっていうのがわからないけど)。家族の日常会話を聞いていると、マウントを取り合ったり、すぐにアドバイスしたり、母がノンデリの父に理解してもらおうと感情的に躍起になったりと、穏やかじゃない様子が多くみられる。その会話でどんな感情、情報を交換し合っているのか。一旦冷静に話し合ってお互いどういう関係でいようとか話し合えばいいのに。結婚30年目なのに、父が「ご飯普通でいいよ」と言って母が毎回「普通ってどれくらい?」って聞くレベルで、明確に分かり合おうという気が見られない。だから短期的なマウントの取り合いとか、享楽の域を出ない。長期的にずっと一緒にいる関係なのに、短期的な感情を優先してしまう。これでは家族でいる意味はあるのか。

僕は幼い頃から「なんで僕は正しいんだろう」とずっと疑問に思っていた。この文面だけ見るとめっちゃ嫌な奴だけど、一番重要なのは、「なんでこのように思っているのか」と問う意味があるはずだと感じていた、ということだと思う。もっと言うと、正しくないのに正しいと思っているのは何故なのか、ということについてちゃんと研究したかった。最近わかってきたのは、人間はちゃんと感情を乗せていろいろ行動すると、必ず醜い部分が出るということだ。noteも書かずSNSも何もしていない時は、ずっと何もしていなかったので醜い部分も出ないから、自分があたかも正しくあれているかのように信じることができた。正しさは基本論理的な思考ができるやつの方が有利だから、感情を閉ざしていたらこっちの方が有利に決まっていた。「不倫は良くない」と、うつ病で性欲が無い人は堂々と言うことができる。でもそれはうつ病が治った時に同じことが言えるのか。性欲が戻ったら、その人も不倫をしたくなるんじゃないだろうか。正しさの剣を振りかざしたくなるのは、人をさばきたくなるのは、結局、その立場を経験していないからに過ぎない。自分も、少し遺伝子が違えば、少し環境が違えば、その間違っているように見える人と同じことをしていたにも関わらず、突き詰めたら運に恵まれただけの理由で他人をさばくことは一体どういう行いなのか。それが正義なのか。道理なのか。そんな大した理由なんてない。でもそうなってしまう人に対しての知識や経験(共感)がないと、直観的に理解できずに自分が正しいって言いたくなるんだと思う。この原理に気づけてよかったと思う。「人を許す」という行為も、「僕はそんな愚かなことをしないけどそういう人もいるよね」というちょっと上から目線なところから、「僕もあなたも同じ人間だ」という、繋がりを感じられる温かい視点でできるきっかけになったかもしれない。

こういう、「人をさばきたい欲」とか「マウントとりたい欲」とかいう、人間関係にプラスの影響を及ぼさない要因を全く取り除いた日常会話ってどんな感じになるのだろうか、と考えたくなる。Xで「一緒にいて眠くなれる人と結婚しなさい」みたいなツイートがバズってたけど、そういう関係でいられる人達は、このようなマイナスな影響を及ぼす要因が少ないか全くないのだと思う。それでいて、お互い気をはらずに自然体でいられる。そういう関係を促進させてくれるものってなんなんだろう。答えがわからなくても、こうやって考えていることが誰かに伝わるだけでなんとなく安らぐ心がある。

僕はVtuberの女の子が好きだけど、結局それって可愛いから、元気になれるから、若いから好きで、短期的な享楽で女性を見ているなと思う。やってるゲームも結局、享楽的なのが多いし。そういう面を好きになって結婚しても、短期的な享楽をまた得ようとするから不倫をするのかもしれない。そういうのにあまり注意関心が向かないために、穏やかな日常の良さみたいなのも知っておきたいなと最近感じてきている。快楽ばっかは疲れると、経験的に気づいてきた。別に人間の幸福は快楽だけじゃないし、快楽はそこまで重要じゃないことになんとなく気づいてきた。でもそれに気づくために、一回快楽にふける必要があったんだろうと思う。(あるいは疲れてそれしか考えられなくなってただけかもしれないが)正しくないと気づきながらも、一旦それに浸る時間をつくるっていうのも、大事なのかなぁと思う。だから自分がちょっと嫌だなって思った人がいたとしても、それをすぐに表現しようとせずに、「そういう時期なのかもしれない」と、温かい目で見てあげるのがいいのかもしれないね。その感情に無理にストップをかけようとする心理状態よりも、そうしたいと思える心理状態で生きていたい。

現代のドーパミンカルチャーばかりに浸っていると、こういう穏やかな味わいが恋しくなる。こういう感情ってどこにも売ってないし、配信やテレビやユーチューバーを見ても誰もなってない。自分が感じたい感情を思いおこさせてくれる存在ってとても貴重だし、そんな親友のような音楽をつくってくれるプラトゥリとこのアンビエントには感謝しかない。僕が共有したい感情を感じている仲間がいる。「ひとりじゃないよ」と間接的に伝えてくれている感じがする。生まれてきて良かったと思う。

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