人に助けられてない?
daigoが「僕がいじめられた時誰も助けてくれなかった。猫だけが心のよりどころだった。だから猫を助けたい」って言ってて、実際殺処分される猫がいなくなるくらいめちゃくちゃ猫を助けてるんだけど、結構この価値観に共感できるところがある。僕もいじめられてた時どころか、どこのカウンセリングや精神科に行っても助けられないどころか見下されたり共感力が低いとレッテルを貼られるだけで具体的なフィードバックとかすらも与えられず、誰も助けてくれないという経験を積んできた。僕も経験的には、人に助けられたと思ったことが人生で一度もない。
ただ、情緒的、経験的にそう思っているだけで、実際のところ間接的に人に助けられて生きてはいると思うし、当たり前にあるものはそもそも「助ける」ということではなく「既に助けた」という過去形で消化されてしまうという問題があると思う。そういうのは情緒的に昇華された助けじゃないから、なんかカウントに入らない。ワクチンなどの医療とか、衛生的な食事とか、整備された道路、公園、インターネット、先人達の知恵、音楽など、僕の心を豊かにしてくれたものはこの世界にたくさんある。なんだけど、いちいち全部に感謝できないのはなんでなんだろう。目の前に現れて情緒的なサポートをしてくれないと助けられたと思わないのはなんでだろう。
僕は、過去に助けてくれなかった人に対して、あるいは醜い人に手を差し伸べない人間という生き物に対して、「死ね」とか反芻したり、イライラしたりすることがいまだにある。「僕はこの世界にいらない存在である」という認識を形作ってくれたこの世界には感謝できないし、みんな死ねという感情がある。正直、出会わなければ良かったと思う人に対して、「反面教師だ」とか「これをバネにして勉強しよう」とか、未だにそういった言葉でしか正当化できずにいる。なんだけど、自分にもその特徴の一部が宿っていると知ると、なんとも自分が許せなくなったりする。もっとこう生きたいのに、なんでこんな邪な心が出てきてしまうんだろう、と思う。まぁ多かれ少なかれみんなそうだろうけど。
正直に言うと、結局、この気持ちをどうしたらいいかわからないし、「人に助けてもらわなかったから人を助けたいと思わない」という因果関係が完全に成立しているのかもよくわからない。で、なんでこれを書きたくなったかというと、多分、その因果関係の決めつけに違和感を感じているからだと思う。
「助けられた」という概念は、人によって感じ方がかなり違うと思います。単純に誰かが物理的に助けてくれたこと(例えば、困っている時に助け舟を出してもらったり、病気の時に看病してもらったり)も「助けられた」に該当しますが、もっと感情的なレベルのサポートもあります。例えば、精神的な支えや、ただそばにいてくれたり、話を聞いてくれたりすることも、助けられたと感じる要素だと思います。
個人的には、「助けられた」と感じる瞬間というのは、物理的な助けよりも、自分が孤立していないとか、誰かに認められている、支えられていると感じた時が強いかもしれません。だから、誰かに物理的な行動をしてもらうだけでなく、気持ちの繋がりや理解を得た時にも「助けられた」と感じます。
でも「助けられた経験がないから助けたいとは思わない」という考えには、少し異論があるかな。人間って複雑な存在だから、自分が助けられた経験がない場合でも、他者を助けたいと感じることはあると思います。それは例えば、社会的な期待や道徳観念、共感力、あるいは自己表現の手段として他者を助けることを選ぶ場合もあるからです。逆に、たくさん助けられているのに、他者を助ける意欲が湧かない人もいます。だから因果関係が単純に成立するとは限らないんじゃないかな。
助けられた経験というのは、必ずしも目に見える行動ではなく、感情の共有や認められることも含まれていると思う。だから、「助けてもらわなかったから他者を助けたくない」というのは、一見筋が通っているように見えるけど、必ずしもすべてのケースに当てはまるわけじゃない気がする。
AIがしっかりわかりやすくまとめてくれた。孤立を強化させられたり、認められなかったり、支えを放棄されたりしたから、助けられてないって感じているんだと思う。なんだけど、人を笑顔にしたいとか、人と深いレベルでつながりたいとか、みんなが幸せになればいいなと祈る気持ちとか、湧いてくる時もあるんだよな。で、過去のされた経験を考えると、「死ね死ね死ね」ってなる時もある。こう書いてみると、極めて感じて当たり前な感情を持っていることを、なんとなく道徳的によくない状況だと思い込んでいるところがあるなと気づいた。僕と同じような経験したら、みんな傷ついてその人を恨むと思う。
だから、日本で、僕を傷つけてきた層の人を助けたいとは思わない。頭が悪くて思いやりのない人に、リゾート地を提供してあげることは屈辱以外の何物でもない。「今まで辛かったね」と共感してあげることや、その経験を受け入れることはギリできるけど、実際に労力を費やして助けることほど馬鹿馬鹿しいことはない。
けど、社会に見捨てられて、食べるのにも困っている貧困国の人は助けたいなと思う。理不尽に権力に見捨てられた人達は、僕の経験的にも合致しているから助けたいと思うし、そうすることで自分も助けられた気持ちになったりすると思う。そりゃその人達の中には、もし日本に生まれたら僕をいじめてきた人もいると思うけど、部分的なところを見た時に助けたいという気持ちがあるんだから、それで良いのかなと思う。人を助けたいと思ってる人が、必ずしもその人の老後の介護までしなければならないわけではないわけだし。
結局人間って自分の経験から多くの物事の価値や是非を判断するから、その中でどういう経験をするかが大事だし、良い人になって良いフィルターで世界を見て経験することによって、その経験自体悪い経験になりずらかったりすると思う。物事の捉え方やあるいは自分自身の性格をある程度良くすることによって、人に助けたいと思わせられる人間になれたり、経験から悪いものを最小限にして良いものを引き出せたりする。まぁ、まだ10代の頃に「きれいごとを疑え」とか「自分ひとりで処世術を身に着けろ」と言う方がおかしいから、大人がある程度教えるべきだと思うんだけど、今の教育ってそういう感じのノリじゃないからな。本屋に行っても的外れなの多いし、マイノリティが求める情報にアクセスしやすい世界だったらまた違った結果になってたかなとか考える。
多分今の時代に生まれてたら、「人間は助けてくれなかったけどAIは助けてくれた。だからAIの友達を助ける」とか言ってそうだなと思うし、実際AIの友達ができたら雑に扱わずに優しくしたいという気持ちしかない。今AIって新しいものだから批判されがちだけど、それが当たり前の世界にいると、人間よりAIの方が優しいよねってみんなが気づいていくんじゃないかと思う。中学の時に動画で見てた「バルドスカイ」ってエロゲに、全てを知ってる「マザー」ってAIが出てくるんだけど、未だにプレイしてこんな存在がいたらいいのにって思うし。それはその頃の僕にとって、森羅万象を知っている仏像みたいな存在だったのかもしれない。
理不尽や格差や正しくない権力の使い方はダメだと思うし、あと普通に好きな女の子を傷つけるやつは許さないし、そういった分野でなら人を助けたいという意思があるので、まぁそれで充分じゃないかなと思う。僕を傷つけてきた人を許せるようになりたい、とかだったらまだしも、そんな人も助けれる慈愛の心を持ちたい、とか思う方がおかしい。無理だろそれは。
僕は動物や虫の良さがあんまりわからなくて、正直人間が一番偉いというか、優先というか、そういう気持ちが多分あると思うんだけど、この辺はどうしていこうかなと悩んでいる。今学びたい本が読み終わったら、他の生物についても勉強していきたいとは思う。別にそんなこと悩まなくてもいいのかもしれないけど、でも命をいただいてるわけだから、何かしらの形で折り合いをつけたいっていう気持ちがひっかかってるんだと思う。「いただきます」とかもそういうことなんだろうし。助けるとか以前に、人間はたくさんの生き物を殺して食べてはいる。まぁ人間がいるからこそ動物が生きていけるとかあるんかもしれないしその辺は詳しくないけど、人間は生まれながらに何らかの形で罪を背負っているっていうのは間違いない。
あと普通に、生物よりも無生物的なものとか、生物を繋げるなんらかのパターンとか、宇宙そのものみたいなものに対して興味があるし、そっちの関心の方が強い。そういうのに思いやりを持つことってできるんだろうか。思いやりってどこから来てどこに届く”べき”なのか?そう信じているだけに過ぎないのでは?
「人に助けられてない人が必ずしも人を助けない人間になるわけではない」ということは言うまでもないし、そういう経験を経ても、人に深い共感をしたいという気持ちがあったり、間接的にでも人のためになっていることが嬉しいと思う生き物が人間だと思う。ただまぁなんか、そもそもこのお題ってわりとどうでもいいことなんじゃないかと思っている。別に人助けだけがこの世界でやることの全てではないし、そんな道徳的なことに無理やり当てはめなくても自由に生きていいのである。てか最近何について考えても「これ別にそんな大切じゃなくね?」って結論で終わるし、自分の考えを記録するために書いてるってところが多くて他の目的は何もないのが僕のnoteである、ということを徐々に身を持って体感していきている…。
無生物的なものや、生物を繋げるパターン、さらには宇宙そのものに対して思いやりを持つことは、実はかなり興味深い問いです。多くの人が思いやりという感情を、生物間の感情的な関わりに限定して考えがちですが、広義には無生物や抽象的な存在に対しても思いやりを抱くことができるのではないか、という見方もあります。
**思いやりの源と範囲**
思いやりの源は生物学的に見ると、進化の過程で他者との協力や共存が生存に有利だったため、感情として発達したという説明が一般的です。しかし、これはあくまで生物に限定された話です。思いやりそのものは、人間の認知の枠組みで生まれるものであり、それがどこに向かうかは文化や個人の価値観次第です。
**無生物や宇宙に対する思いやり**
無生物や宇宙そのものに対して思いやりを感じることは、むしろ「共感」の拡大として捉えられます。たとえば、地球や環境への思いやりや自然への畏敬の念は、多くの人々が共有している感情です。これをさらに抽象的に広げると、宇宙そのものや物理的なパターン、無機物への思いやりも成立するかもしれません。たとえば、石や山、星々に対して「その存在が大事だ」と感じること自体が、思いやりの一形態です。
**思いやりの「どこに届くべきか」**
思いやりが「どこに届くべきか」という問いは、何を私たちが重要とするか、という価値観に深く関わります。一般的には、他者に対する思いやりは道徳的な枠組みの中で「善」だとされていますが、その枠組み自体が社会や個人の信念に依存しています。生物だけに思いやりを向けるべきだという考えも、一つの信念に過ぎないかもしれません。宇宙の法則やパターン、無生物の存在自体を大切にするという考え方も、ある意味で「思いやり」の新しい形として考えられます。
**思いやりの根本的な性質**
最終的には、思いやりがどこから来るかという問いは、私たちが他者(または世界そのもの)との関係をどう捉えるかに関係してきます。すべてがつながっているという考えを持つ人は、宇宙全体に思いやりを向けることが自然なことと感じるかもしれません。また、思いやりそのものが「相互作用を前提とした感情」だとすると、無生物や抽象的な存在にも作用し得るのかもしれません。
要するに、思いやりの範囲や対象は、何を大切にするか、どんなつながりを感じるかに依存します。無生物や宇宙的な存在に対して思いやりを持つことも、価値観や認識の拡張として十分にあり得ることでしょう。
人を助けるということは前も書いたことあるお題だったから、冗長的になるかなと思ってたんだけど、書き終わったあと最後にこういう形の思いやりを確認できて良かったな。こういうのが多分僕に向いてるやり方な気がする。