差異に気づく、生きる意味とは

僕はなんでnoteを書いてるのかっていうのがわかった。人間は差異しか知覚できないからだ。毎日同じような生活を繰り返していると、自分の可能性や方向性がわからなくなるのは、その生活に差異が無いからだ。noteを書いて一旦ポジションをとってみると、その文章と自分の感覚の差異がわかって、方向性が定まる。

例えば、先日「無職のためのマニュアル」という記事を書いたが、これは書き終えるまではどんな方向に向かうか自分でもわからなかった。わからないけど、でも確かに自分の中にあった知識の羅列だった。「創造性」を意識せずに無意識で書いた記事だったから、その記事の性格は過去の自分の生き方に起因している。なので、過去の自分と今の自分との差異が感覚として目の前に現れた。この感覚は、一旦過去の自分のポジションをとってみないと、差異として知覚されなかっただろう。自己啓発本で「行動しよう」と口うるさく書かれている理由はこれだと思った。行動すると、ポジションをとってみると、自分が求めている感覚との差異が現れて、「自分はこれでいい、よくない」ということをしっかり感情で理解することが出来る。これは、例えばもし他の誰かが「無職のためのマニュアル」と全く同じ記事を書いたとしてもだめで、それは他人事だから結局「ふーん」で終わってしまう。つまり本を読んでいても実践(体験?感情?)を伴わないとその情報は「ふーん」以上にならない、つまり差異として知覚されない。

僕達は何かを深く学ぶ時に、体験が必要だ。そのためには、心を開く必要がある。文章を成立させるために自分の気持ちに嘘をついて書いたり、適当に書いてそれを読み返さずにその意味を知覚しないまま終わってしまうと意味が無い。これは自分にとってどんな意味があるのか、どんな感覚をもたらしてくれるのか、人生の貴重な時間をそこに使うことで、未来の人生にどんな影響を与えているのか。自分にとってその情報はどんな意味があるのか。SNSではニヒリズムが流行っているし、僕も少し前までニヒリズムだったけど、今は意味を考えるのが生きがいになっている。というか、生きがいって意味がないと生まれないものな気がしているからだ。chatgptに何度言い方を変えて聞き直しても、「その人の生きがいは他の人にとっては意味の無いことかもしれません」としか帰ってこなくて、「人間は意味のないことに生きがいを感じることもある」という答えは返ってこなかった。「意味のある、ない」を、社会のコンセンサスから、つまり他の人の価値観から決めていないだろうか?

意味を理解するためには差異が必要だ。自分にとって意味の無いことをしていると、「何かが違う」と人間は大体思うはずだ。例えば今「あちやはかたにきひわ」と呟いてみてほしい。すぐにそれを呟いた意味を欲すだろうし、もう一度呟きたいとは思わないだろう。あなたがこのnoteを読むことは意味がないかもしれないが、「あなかてるかまるか」を1000回唱えることよりかは意味があると認識しているから、これを読んでいるのだろう。自分がやってる行為の意味の階層や段階、そして、マクロレベルの意味(生きる意味など)と、ミクロレベルの意味(この文章を読む意味など)に関しても、僕達はもう少し注意を向けるべきだと思う。言語は、それ自体では何も意味をなさず、文脈によって解釈されるものだ。自分にとって一番意味のあることは?一番意味がなくて苦しいことは?どんな文脈を敷いてその情報と触れ合うのか?

「意味が無い」と嘆くことに意味があるとは思う。それはつまり、「意味が欲しい」という差異に気づくために放たれた言葉だからだ。意味が無いことがハッピーなことなら、それは嘆きではなく喜びの詩になるはずである。嘆きは、事実ではなく悲しみを表現したいという感情からまず生まれる。その後に放った言語を見て、論理の辻褄があっていると確認する。しかし、論理や言語に真実など何も無いということをほとんどの人は何故か知らない。「事実」を認識した時の絶望よりもまず先に「不快な感情」があって、それを証明するための安心感を得るために直線的で何も教えてくれない論理というおしゃぶりをしゃぶっているに過ぎない。よく考えたら、あなたが産まれる前に存在する言語表現は、あなた抜きでつくられた社会のコンセンサスという幻想は、あなたの感情を完全に表現することはできないということがわかるはずだし、そもそもそのコンセンサスに意味を与える作業は、あなたがしなければならないことなのだ。体験として差異を認識しながら、手探りで。初めから他人に教えられることに、意味なんて最初からない。

この文章も、世界中でどこかの誰かが必ず同じようなことを考えているだろうから、意味は無いかもしれない。けれど、僕にとっての差異と味わい深さは確かにそこにある。


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