散歩と悲しい顔

今日は地元の人しか降りなそうな駅を降りて、周りを2時間くらい散歩していた。ちゃんと田舎で、2時間歩いてもスーパーとローソンしかなくてマジかってなった。唯一、市の中心にある、図書館とか音楽室とか和室とかいろいろ複合的にある施設の中を探索できたのが良かった。通信の学校と市役所と病院を混ぜたみたいな雰囲気なんだけど、ちょっと安っぽいアートもたくさん飾られていたり、建物の構造も周りにある美しい自然を利用者に見てもらうために設計されてる感じがして、いろんな空気感を味わうことができる建物だった。「多目的ルーム」ってところを外からチラっと覗いたんだけど、あ、多目的ルームってワクワクする場所だったなって思い出した。ふいにちらっと見た瞬間ワクワクしてしまう自分がいたのが忘れていた感覚だった。物心がまだついていない時、そんなに弱者強者の階級が定まってない時は、みんなで集まってレクリエイションする時間ってちょっとワクワクする時間だったなぁって思い出した。どんな人でも、みんなで楽しめることしようっていう時間って大人になったら全くなくなるなと思った。本当にどんだけ努力しても、違う界隈の人をランダムに40人とか集めるのむずいと思うんだよね。そう考えるとクラスって奇跡的な集まりだったなと思う。逆に、そんな尊い時間なのにサポートで来た実習生みたいな人が永遠と過去の苦労話をするみたいな会があって、それ良い話風に言ってるんだけどマジでしょーもなかったなって感じたのが記憶に残っている。そういう一方通行の動画みたいなのは今の時代youtubeに無限に転がってるから、インタラクション性があるものを学生の時にいっぱいやった方が良いよな、と思うし、そういうのは楽しかったって記憶に残ってるんだなって感じた。

自然って、場所によって見え方が全然違うんだよな。「大地と自然の関係」みたいな単純な関係よりも奥に、「情報量の少ないなめらかな大地と欲しいところがスカスカしている二つの濃度の色を使った自然」みたいな、もうちょっと具体的な風景が見えてくるんだけど、この繊細な違いに敏感になることこそが散歩を楽しむ秘訣なのかなとか思った。ゲームのマップみたいに、ここが火山、雪、自然、サイバーシティ、とかわかりやすいのではなく、繊細な違いを自分の足で歩いて楽しめるのが現実世界の良いところだと思った。画面って結局四角い視野に限定されているし、次の動画(景色)にすぐ行かないと飽きちゃうってのがあるけど、散歩では繊細さをじっくりと堪能する時間を持てるなと。こういった穏やかな喜びは、四角い画面の中では捉えきれないのかもしれない。

帰ってきて、カジサックとヒカルと徳井さんとのコラボ動画を見た。カジサックチャンネルの方では、カジサックが酔っ払いすぎて、めっちゃいろんな人に失礼なこと言ったり不快にさせるようなことを言ったりしてて、ヒカルがすごい悲しそうな表情をしていたのを見て僕もちゃんと悲しい気持ちになった。ヒカルはずっとカジサックのことを動画で褒めていて認めていて、そうやって自分が信用して一緒に番組もしようって思った人だからこそ余計くるものがあるんだろうなと思った。最近だとDJまるっていう人も酒絡みで人を不快にさせるようなことしてて、どうやったらこういうことって防げるのかなーって考えてしまうよね。酒が全て悪いわけじゃないし、何が人をこうさせてしまうのだろうか。こういうのって他人ごとじゃなくて、環境の変化とか次第で自分もなってしまうかもしれないことだからこそ、何かしらの教訓を得たいとは思う。自分の内に知らない間に溜まっている、ネガティブな感情に気づいて言語化して昇華させないと、なんかの拍子にそれが出てしまうのかなとか思った。僕も昇華しきれてないネガティブがあるからこそ、排他的なこと言っちゃったりすることがあるし、それはなんかこう魅せ方次第でなんとかなったりもするんだけど、悪い魅せ方で出てしまう時もあって、そのたびに自分を責めてしまい、けど責めても解決にならないからどうしたらいいのかわからなくて、そういう感情の取り扱い方をサポートしてくれる何か、それは友達とかで補えるのかわからないけど、そういうのを人間はやっぱり必要とするんだなぁと思うし、一人で全部解決しようとしてもやっぱうまくいかない何かがあるんよなぁと、このあたりは答えの出ない世界の歪みだなと思う。理論を崇めて、世界を抽象化しても、こういう複雑なものが絡み合った歪みに対抗できないことが証明されたのが20,21世紀だと思うんだよなぁ。

孤独感は友達によってなくなるのかもしれないけど、孤独そのものは、友達や周りにどれだけ恵まれてもずっとずっと抱え続けなければいけない人間の業みたいな部分があると思う。本当の意味で孤独を満たすには、友達をつくったり結婚をつくることではなく、「良き関係」をどれだけ築けるかなのかなとか思った。人間って、一回「これは絶対あかん」って学んでもまたやってしまうのは、怠惰な心のある人だから、という問題だけではなく、繰り返して感情体験することで、何度も思い出すことで、より行動が強化されるように動機づけられた生き物だからっていうのもあると思う。だからこそ、自分の良きところをうまく引き出してくれて、うまく反省を促してくれる関係をつくれたら強いよね。それが価値観として良いものだって、その関係の中で知っておく必要があるから、この辺はどれだけ人間の怠惰な心を納得させられるかも大事である。

人を見下したり暴言を吐いたりしたくなるのはそうしたいからではなく、そうせざるを得ない状況になったからなのかもしれない。こういう性善説的な結論に至ったのは、やっぱり努力や工夫次第でなんとかできるって思いたいからだろう。僕は、最近のネット社会に見られる、世間からバッシングを食らったから、それに反応しなきゃいけないから流れで反省、謝罪するみたいな風潮が、自分からこれは反省するに最もらしいことをしたと自覚させることを妨げているんじゃないか、という疑問を持っている。まぁ人間って自分から進んで悪いことを認めたくないし気づかないからそうなるんだけど、僕はその部分ではマッチョ思想を持っていてどんどん自分の悪いところと向き合いたいっていう強い欲を持っているから、外の人からは気づかない部分だけ教えてもらって、あとの認めて反省するところは自分で決めたいな、と思う。というのも、そうすることによって、例えば酒でみんなに迷惑をかけたことによる反省じゃなくて、その原因、普段から自分の中にあるネガティブな感情を整理できてないことに注意が向いて、より本質的な部分を見て反省ができるようになるんじゃないか、と思うからである。外の人は外側、ネガティブな体験そのものしか見れないわけで、でも自分はそれに至る要因を知っているわけだから、反省すべきポイントは自分の方が(あるいはずっと自分を見ている人の方が)知っていることの方が多いと思う。

今日の日記がここまで。タイトルを決めて「こういう文章を書こう」とするんじゃなくて、自然な流れで文章を書いた方が感情が乗りやすいということに気づいたので、これからはタイトルの決めない文章も書いていきたいと思った。今回のタイトルも適当です。

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