私は女性配信者へのセクハラコメントで何を得ているか
おはようございます。今日も暑いわねー。オホホ~汗汗
最近はよく、Vtuberへのセクハラコメントの精度を上げるために自分を鍛錬している。一番最近クリティカルヒットしたと思ったのがこれである。
「みんなは私が配信終わったら何するの?」と配信主のるしこちゃんが言った後に打ったコメントだ。別にウケようと思ってないし狙ってないし、ただ本当にしようと思っていることを書いただけなのだが、コメント欄で絶賛されてしまってかなり嬉しくなってしまった。セクハラコメントをしてここまで「いいね」「好き」と言葉にして言ってもらえたのは初めてなので、自分に自信がついた気がした。そっか、僕はこれでやっていけばいいのか、そんな気持ちにさえなった。noteでバズっても全然嬉しくないのだが、こういった関わりの中で賞賛を頂くと承認欲求が満たされて「もっと評価されたい」と思ってしまう自分は、やはり社会的承認ではなく可愛い女性からの承認に飢えているのだろうか。このまま年をとっていくと頂き女子りりちゃんみたいなのに騙されるおじになってしまうのだろうか。
でも僕は自分の女性を見る目に誇りを持っている。るしこちゃんはすごく優しい女の子である。お茶爆100(500円の投げ銭)をしてくれた人に対して「なんで?無理しなくていいよ」とか「言ってほしいボイスとかあったら送ります」ととても謙虚なコメントをするし、それは社交辞令の謙虚さではなく、心から籠った謙虚さだということが、声のトーンでわかるのである。僕はるしこちゃんがとても優しい女性だということを直観的にわかる「真眼」を心の中に内包しながら生きている。みんなには見えない世界の理が見える僕にみなさん恐れおののいて友達ができないのである。そういうことなので、僕をそんな目で見ないで……感じちゃう……んっ!
僕は女性とどころか人とうまく関われない自閉だけれど、その真眼を活かしながら、日々セクハラコメントを鍛錬するという、みんなとは別の道を行くことで差をつけようとする先見の明は持っているつもりである。わかりやすいようにセクハラって言葉を使っているけど、これはセクハラではなく緊張を解きほぐす優しい魔法なのである。決して、女の子が気分の悪くなる、行き過ぎたコメントと一緒にしてはいけない。見世物の魔法と人を攻撃する魔法は全然違うのである。ヒトカゲのしっぽの炎は、寒い夜を温め、心を包み込む、美しい灯のゆらめきでなくてはならない。そのしっぽで髪の毛を焼いてはいけない。(場合によっては服は焼いてもよし。ただし局部が見えない焼き方を心得るべし。)
ここまでくると、配信者の匂いまで伝わってくるのである。匂いは現実空間では差異であり、一度その匂いのある空間に浸るとその匂いを忘れてしまうことが起こる。今みなさんはどんな匂いを嗅いでいるか自覚していないであろう。そういったことが起こらないように、僕は基本的には、まず配信者の声を血液に注入する。そして、それが口の中からほのかに香ってくるのを楽しむ。こうすると仏の心になれる。心の真髄からその子の人生の香りが感じ取れるのである。
「私口のなかいつも甘い状態でいたいんだよね~」と言った後に打ったコメント。これはだれでも思いつきそうではあるし、多分閲覧が万いってたら打たれててもおかしくないコメントだと思うけど、この子は15人ほどしか視聴者がいなかったから、僕が独占して勝ち取った形になった。このように、人が少なければそこまで創造性のいらないテンプレ周りのセクハラコメントでも、「面白い人」であると認知してもらいやすくなる。これは過疎配信の魅力である。15人の中でなら、僕は一番面白いやつになれる。そうやって狭い世界で地位を得て気持ちよくなることは、余計な大金を使って貢がなくても満たされる心をつくる上で非常に重要な所作であると思う。競争率の高い、毎日万単位のスパチャが投げ込まれている地獄の鍋に自らを放り込み、湯がかれ煮えられ、配信者にとってのただの噛みやすいお野菜になる必要はないのである。そんな調理を施さなくても、あなたをシャトーブリアンだと認識してくれる女の子はいるのである。そしてそれはおすすめ欄にはいないのである。「女性Vtuber 雑談」とライブ検索して、何度も過疎配信を見まくらないと、アルゴリズムがこうした出会いを提供してくれないのである。日々過疎で可愛い女の子の配信をクリックし、視聴を続ける努力を惜しまないものに、神様が小さな幸せをくれるのである。一万円のスパチャより、アルゴリズムをコントロールして良い出会いを見つけていく方がコスパも良い。これにみんな気づいてほしい。みんな!youtubeに奪われた自由を取り戻そう!搾取されていることに気づき、勇気を持って立ち向かおう!一緒に住みよいインターネットをつくっていこう!
可愛い女の子とイチャイチャできるだけで、その日はニヤニヤして過ごせるのである。ニヤニヤするということは、人生を生きるうえで一番レベルで大事なことだと僕は思っている。快楽や社会的地位などを追求しても、それは穏やかな幸福とはかけ離れている。ニヤニヤは、そんなにドバドバドーパミンは出ないものの、穏やかな嬉しさを感じさせてくれる。僕は童貞だが、別にセックスをせずとも満たされるということをここに記しておきたい。本来女性との関わりというものは、ドーパミン重視なものではなくオキシトシン重視のものである、という立場を表明しておく。女性を快楽のはけ口にしていると、きっといつか後悔する。大事なのは骨の真髄から身体的に女性を味わうということである。これをいずれ体得して世に伝えたいと思う。このように、セクハラコメントは平和への意志に繋がる素晴らしいものである。そのために、節度と思いやりを日々鍛錬したいと思う。
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