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無職の一日 夏の終わりver

最近かなりメンタルの調子が良いので、今日一日の日記的なものを時間刻みで書くという、クソだるい執筆をやろうとする気持ちが芽生えてきた。ポジティブもネガティブも全部書いて、自分はどこを目指しているのかをもっと把握できるように、体験を言語化して、いろいろ考えていこうと思った。ちなみになぜか一万文字以上あるので全部真面目に読む必要はありません。


7時:起床
毎晩10時に寝て、7時に起きる。睡眠時間9時間。これは最近ほとんど乱れない。身体の炎症が酷かった時は9時や10時に起きたりして睡眠時間が12時間くらいだったし、工場でアルバイトとかしてた時なんかは14時間くらい寝なきゃ身体がまともに動かないって時もざらにあった。最近は、自分に合ったライフスタイルを送れていて、健康状態もいろいろ工夫してだいぶ安定してきたと思っている。サプリもだいぶ安定してきて、朝は基本的にアシュワガンダを飲んで、たまにロディオラやマカや複合系の神経を落ち着ける系のサプリを追加で飲んでいる。昔はサプリに頼りすぎていたし、飲んでるサプリについての記事も結構書いてたけど、ここがアイデンティティのよりどころになるなんてことはあり得ないことに気づいてきたしあくまで体調を整えるための道具だから、そこは良い感じの距離感ができてきた気がする。


トイレとインタラクションする。開けたら「ウーwピュチェアピュチャアァアlッァw」って言ってくるのを聞く。最近はマインドフルに生きることを心がけていて、今日冷静にしっかり聞いてみるとなんてこっけいな音なんだろうと思う。

歯ブラシを二階に自室に持っていく。洗面上では磨かずに、一旦モニターの電源をつけていろいろしてから1,2時間後に磨くのが日課。まだ頭が起きてないからいきなりめんどくさい作業をせずに、ぼーっとしたいという気持ち。


電源をつける。twitter、noteを開く。昨日の投稿のいいねは0だった。自分ではめっちゃ楽しい気持ちになりながら書いてて、書いた後もニヤニヤしてたし、こういう投稿がいっぱいあったら面白いのになと狭い視野ながらも思っていたんだけど、まぁみんなにはわかんなかったようだ。でも確かにあれがなんの前触れもなくいきなり目の前に現れてきたらどのような感情になればいいかわからないと思うし、経験したことのない感情で気持ちよくなることはこのnoteという場所では向いていないから、いいねとは思わないんだろうけど、その文章は僕がいいねと思った残骸であることは確かで、しかし残骸でも食べれるものと既にゴミのものがあって、その区別ってどうやったらいいかみたいな思考のスキームってそういえば考えたことないよなって思って、そもそもいいねが来なくて悲しい気持ちになる理屈ってもうないはずなんだけど、何故か過去の経験からこの感情になることがなんらかの形で適応的だという誤解があって、そこを解いたり関連する事柄を記述したりしてなんらかの気持ちの整理をつけたいという気持ちが出てきた。そもそも最近のnoteは人との繋がりを全く考慮してなさすぎるし、昔増やしたフォロワーが求めるコンテンツをもう提供できなくなっているんじゃないかという心配もある。自分も別に楽しいと思いながら書いていない。目的も決まっていない。僕はnoteを定期的に書くことで、悪い意味で無常と無我を体感しているところがある。

おー、今日もエッチな絵がおすすめに流れてきたぜー。いいねポチ(*^^)-。twitterではほとんどエッチなイラストしかいいねしていない。たまに哲学的というか思索的なことに感銘を受けた時はするけどそれくらい。そういう生き方がやっぱり合ってるんだろうなぁと思うし、SNSの使い方もうこれで満足しているといえば満足しているんだよな。AI絵が特別好きってわけじゃないんだけど、なんかAI絵が多くなっている。いいね欄さかのぼったら7割はそうだった。みんなAIより人が書いた絵の方が良いよねーとか言ってるし、「人間の書いた絵は意識というものが関与しているからAIの書いた絵は面白くないんじゃないか」とか茂木先生も言ってたけど、なんかあんまピンとこなかったな。このイラストだって、塗りめっちゃ良いし、水色の水着の美しさとか影とか、表情とかめっちゃ良いなーと思うし、何回も見返したくなる。イラストは、AIが出てくる前から好きで、イラストレーターを見るだけのアカウントもあったくらいなんだけど、なんかこっちにすんなり移行できてて、あんまり前のアカウントをまた覗きたいとも思わない。書いてる人に対して興味なかったら、人に興味がなかったら、イラストなんてもうなんでもいいんじゃないかとは思ってきている。むしろAI絵の方が雑味がないというか、シンプルにエッチだから、こちら側の妄想で自由に動いてくれる感じがする気がする。…って書いてみたけど本当のところ違いがよくわからない。だって人間かAIか気にせずにだいたいいいねしてるから。

なんかこれ引用したくなったんだけど、これ過去にも何回か僕言ってるんだよな。なんで言ってるんだろうって考えた時に、マウントとりたいってだけな気がしてきて自分がちょっと嫌になった。スマホ見なくてパソコンのchromeだけで全部完結させてるから、そういったシンプルなインターネット生活の美を表現したいとかいうのもあるかもしれない。そういえばスマホでエロ動画見る時は広告見てるな。けどあれをクリックしたいとか一ミリも思ったことないから広告として認識していなかった。インターネットはいろんな機能があるけど、シンプルに使いたい。noteも、UIがシンプルだから使っている。

7時20分:マイクラ
20分の出来事をここまで書いてしまってほとんどの読者はここで挫折していると思うけど、一万文字目指して全ての行動を書いていこうと思う。

マインクラフトに最近ドはまりしている。クリエイティブモードで、自由に建築している。みんなyoutubeとか見るとサバイバルでやってたり、建築するにしてもちゃんとした家を建ててるんだけど、僕的にはそういった楽しみ方よりも、つくるものを決めずに自由にブロックと対話して、誰もつなげないようなブロックの構造と、かつそれがどのように良い感じになるのかってところに興味がある。

地形をTNTで良い感じに破壊した後、その地形をうまく利用しながら思いのままに建築していくのが楽しい。つくった後に、それを見返して遠くから見たらこう見えるんだっていう発見は、つくった本人も驚いて感銘を受ける感じが、なんか良い。自分でつくったはずなのに、新しい発見がある。生成AI絵でもそういう感覚がある。僕はそういうのが好きなんだと思う。

こういうごちゃごちゃしたのとか、

狭いけどなんかわくわくする通路だったり、

凹凸があって、外が良い感じに見える階段だったり、youtubeで再生されているすごい建築と比べたら大したことないのかもしれないけど、僕からしたらこういうのが一番の内発的報酬になる。僕は変態なので、僕だけが好きな地形、形、構造っていうのが絶対にあるはずだと思っている。そういう面白さを探していきたい。めっちゃ楽しいし。


8時30分:洗面など
ブロックがまだ頭の中にイメージとして残っている状態で歯磨きをする。この創造的な状態の脳は結構幸福ホルモンが出ている気がする。薬物やった後ってこんな感じなのかなってくらい出てる気がする。マイクラでこんなに幸せになれるなんて今まで気づかなかった。マジで幸福すぎて悟ったんじゃないかとか思ってたんだけど、最近読んでる華厳の思想っていう仏教の本で悟ったとか言ってるやつは欲望の延長だとか書いてて、あー確かにそうかもってなった。けど落合さんの本ではひとり遊びに成功した人は悟りですよみたいなこと書いてたり、大谷翔平も悟りだとか言ってたりで、自分の目標に集中して外部のノイズに悩まされない状態ってある種悟りに近いのかなーとは思う。僕は最近マイクラ始めてから街を歩いててもブロックで改変したら楽しそうとか思うようになったし、なんか他の小さな悩みどうでもいいなーという気持ちになったりして、ちょっとは近づいているのかもしれない、とか思っちゃってる。でもさっきnoteのことで悩んだりしてるし、これから書くようにネガティブな気持ちもまだ全然あるから、まだまだなんだろうけど、なんかもうちょっとSNSの使い方とか工夫すれば一段成長した自分が見れるんじゃないかなーと思う。何を見なおそうか考え中。


昨日バリカンでいつものように髪を坊主にしたんだけど、まだ残り髪があったからちょこっとまた刈った。無職だから誰にも髪見せないし、良く見せようとか思わないのでファッションとかもシンプルなのしか着ない。けど鏡見た時、坊主の自分全くかっこ悪いかと言ったらそうでもないし、ロン毛で整ってないとかセットしてない洗ってない髪とかよりは清潔感あって良いんじゃないかと思ってきている。上だけ6mmにしてちょっとでっぱるようにしてたらスポーツ刈りっぽく見えて完全な坊主にはならなくてオシャレに見えるし、これで良いような気がしてきている。気持ちもスッキリするし、ほとんど何も汚れないから、清潔な感じがする。そして、頭と顔を洗って、日焼け止めを塗って、リュックを持って外に出る。

8時40分:外出
晴れてるの良いね。夏は晴れが多いから好き。チャリに乗る。行き先は決めていない。いつもは近くの緑の多い公園を30分くらいうろうろして気分転換するんだけど、最近心が晴れやかな率高いから遠くまで行っちゃいたくなる。心が沈んでいる時に遠くに行くとドっと疲れたり、心の狭さのわりに周囲が広くて陽キャな感じがして悲しくなったりするんだけど、自分の心がのびのびしているとそういうところに行っても適応できる感じがあるし、そういうところを求める心になってくる。自転車に乗っている時の僕は、何を考えているんだろう?踏切の音を聞きながらブレーキを握ってぼーっと空や線路の石を見るのが好きだ。そうした時に、顔を斜めにしてみたり、近くの土砂に注意を向けてみたり、いろんな角度からその眺めを見るのが好きだ。夏を感じられる角度を探していた。


自転車で15分ほど。とりあえずコーナンに入る。ほとんど入らない店だから、勝手がわからずとりあえずうろうろする。観葉植物のコーナーにまず惹かれた。近くから見たり、遠くから見たり、木の机とか家具に絡まった植物を意識したり、名前がつけられた植物と植物の関係から、名前ではわからない新しい定義のようなものを無意識に探していた。植物は家にいても外にいても輝くから、この世界でかなり大切なもののひとつなんだろうなって感じがわかる。ちょっと歩くと、キッチン用品やガスコンロ、風呂の展示があった。突然のお風呂にテンションが上がって、お風呂の淵に座ってその場所を堪能していた。他の家のお風呂って、多分テンション上がるんだよな。行ったことないからわからないけど、今日入ってみて思った。お風呂の解放感って、社会のしがらみとかからかけ離れている感じがするから好き。露天風呂も良いのかもしれないけど、室内にあるからこそその小さな空間に大いなるものを見れるっていうのがあると思う。そういう茶室みたいな要素ってなんかあるんじゃないかと思うし、1000円までなら払うから人んちのお風呂入らせてほしい。そういう体験したい。エロゲとかでは、お風呂に入ったらプレイのことしかしないからその辺しょーもないなーと思う。その場所を楽しむ時間をつくるために工夫してほしいし、そういった感性があるということをみんな思い出してほしい。


ここらへんで、ちょっと外に長居することが確定してきたので、飲み物をひとつ買おうかなと考える。冷やされてない、そこまで綺麗じゃない白い棚に陳列された飲み物類コーナーを見る。陳列が低い。家に置いてある棚と区別がつかないくらいに、お店らしくない陳列のされ方だった。照明もなく、売ろうという努力が見られない。ただ置いてあるという感じが、お店の中に贅沢な資源のある家があるような光景を見た。全体的に安い。78円のお茶に惹かれる。スッキリ後味、みたいなことを書いていて、形は丸くなく細長い感じ。無難さとパッケージの見たことの無さと安さで購入を決めた。それだけを持っていくのも、と思って、おやつのカロリーメイトも一緒に手に取る。うわー、レジが、すっぽりしていない!!!レジっぽくないところで、ひとつのカウンターだけ、むき出しになっていて、他の棚や陳列と微妙に不釣り合いな構造をしている。カウンターがひとつしかなくて、おばちゃんがニチャっとしながら立っている。歩く。歩くたびにおばちゃんの目もゆっくり動く。僕だけのカウンター。今この店でレジにいるのは多分僕だけ。自動会計機が導入されていなかった。現代のレジ。いつの間にかなくなりそうな、当たり前の光景。


ペットショップがある。まずオカメインコを見る。可愛い。自分ちで飼ってるからなのか、母と感性が合うのかわからないけど、この子が一番可愛い。他の鳥はそんなに興味をそそられなかった。木の枝みたいなのもなくて地べたに這いずり回ってるのが可愛そうだった。前行った別のペットショップは普通に木の枝があったのに。うさぎがいた。うさぎはなんか不気味に見えた。なぜこんなに太いのか。写真で見たら可愛いって思うんだけど、実物見るとでかいごつい感じがする。蛙、きもい。なんでこんなの飼うんだろ。魚も観賞用なら動画とかで良くね。犬。こっちを見ずにスタッフが開けるであろう後ろ側のドアばかり叩いていて悲しくなった。証明写真みたいな正面から撮った犬の写真とセール中と書いた値段の値札を見て、そうやって切り取って動物を見ている自分に(あるいは人間に)なんだか悲しくなった。鳥がピーピーうるさい。ガチで不快な音を出す方が何匹かいるみたいで、すぐにここから抜け出したくなった。動物は好きなところもあるけど、ペットショップという場所はどうやら苦手なようだ。心優しき人間は、あんなかごに閉じ込めたりできないのではないかと思ってしまう。でも、動物を飼うってペットに愛情を注ぐのが好きな人がやることだし、動物が苦しんでたら病院に連れて行ってあげたりとある程度思いやりがある人だと思うんだけど、そことそこの優しさって違うのかな。てか、自分の人生は一度きりなのになんで他の生物の人生の世話しなきゃいけないんだと思うし、命の責任がのしかかるのと金銭的な負担が多きすぎるなと思う。あと、僕は言語でしか分かり合えないという固まった考え方が強すぎて、言語を語れない人間や動物との関わり方がわからないというところがある。僕という存在は非言語的な要素からなっている自然だというのに。

9時半:スーパー
さて次はどこに行こうかな?曲がったことのない曲がり角を曲がってみて、そこから迷わないように一直線に自転車を走らせてみた。夏の空と太陽の日差しを感じながら、無心で自転車を漕ぐ。入ったことのないスーパーがあった。入ってみる。うーん、全体的に美を感じない。上を見上げると灰色でパイプのようなものがむき出しになっている。無駄に広い。陳列がありきたり、構造が一目でわかるような単調なつくり。建物の構造にワクワクしないし、ちょっとそこにいるだけで不安になるレベルだ。これは長居しても意味がないと思い、すぐに出た。もうちょっと明るさがあるとか、曲がり角をつくってみるとか、僕だったらこうやってつくりたいという気持ちが出てきた。僕が完全に自分用のスーパーをつくれるなら、どういうつくりにするだろうか?まず、その場にずっといても不快にならず、商品をゆっくり見れるようにするだろう。BGMはゆっくりアンビエント、壁には食材関連のアートが飾られている。照明は明るすぎず暗すぎない、陳列の棚の雰囲気は商品によって異なり、構造は1スーパーにつき1エキセントリックな構造を加えてたい。欲しい商品を探すのに邪魔にならないくらいの、かすかな遊び心があれば楽しいと思う。かといってドンキみたいにガチャガチャしてるのも目が疲れる。うーん、難しい。こうやって一旦考えておくと、次にスーパーに行った時に新しいアイデアが出てきやすくなるから、こうして考えて言語化することには意味を見出している。(ちょっと時間たってまた書きたし)そもそも、最強のスーパーというところから始めるよりも、最強の文脈、どういう感情でそこに来るのか、そこを楽しむのか、ってところが一番大事な気がしてきた。料理に関する知識があれば、より楽しめるだろうし、2人でこれから料理するための具材を買う、とかいう目的とかだったら最高だろうなとか思う。てことは食材や料理に関する本を読むことで、よりスーパーが輝くってことになるかもしれないな。そうやって世界と世界って繋がっていくんだ。

10時:自然公園
ストレスが溜まってきたので、めちゃくちゃ緑がいっぱいの大きな公園に行った。やっぱり自然は良い。いつでも僕を受け入れてくれる。心が穏やかな気持ちになる。ゆっくり歩きながら、創造的な思考に身をゆだねる。最近は架空の物語を妄想することをよくしていて、今日はさっきのお風呂に思考がつられて、ギャルゲをつくるならお風呂の中で女の子とどのような会話がくりひろげられたら楽しいかということについて考えていた。どのような形でお風呂に一緒に入るのか、お互いのお風呂にかける思いはどのくらいか、そこから考えないといけないので、どのような関係性を女の子とつくりたいのかという課題について考えていた。最近支配欲がなぜか暴走しているから、主治医と患者の関係とか、神とその創造した女の子の関係とか、そういう方ばっかに考えちゃうし、そういうの妄想する方が今までにないパターンだからどうなるんだろうって興奮するし、好奇心からくる内発的動機が刺激される感じがあるんだと思う。でも、何の軸もなく新しい展開ばかり求めていたら、それはそれで地に足のつかないシナリオになっちゃうなって今日気づいたから、どこをありきたりにして収束させてどこで新しい感じにして魅せるのかってところを考えたいなと思った。こういった思考をしながら働ける場所とかあったら働きたいし、実際そういうところないことはないと思う(単純作業の肉体をあまり使わない工場とか)んだけど、探すのがむずいし毎日通うとなるとやはりハードルは高いかもしれない、けど最近の体調だと、行ける気はしてきている。数年後、そういったところで働いている可能性は多いにあるけど、そういったところは機械化されてそうだなとは思う。と、そうこうしている間に背中が汗でびちゃびちゃになった(写真がなくて申し訳ない)ゆっくりと自転車を漕ぎながら帰宅する。

11時20分:帰宅
すぐに服を脱いで扇風機をMAXにする。気持いー。汗が止まったところで服を着替えてベットにダイブ。前までは無音や何もない時間が辛くて配信を聴いたりしちゃってたけど、今は何もしない無の時間を少しは楽しめるようになってきた感がある。意味も変わってくる。何もしていないというよりも、何もせず世界を感じることこそがこの世界との関わりにおいて最上級に贅沢で素晴らしい行為であり、僕の生まれてきた意味であるということが、なんとなくわかりつつある気がする。

11時40分:お料理タイム。
お料理タイム。毎日昼ごはんつくるし、夜に親が外食してる時も必ず買ってきたもので済ませずに自分でなんとかつくる。僕は料理というタスクがまぁまぁ好きなのかもしれないし、ぶっちゃけ両親につくってもらわない方が生活的に豊かになる気がしてくる。自分でなんらかの成果物をつくるっていうことに、自己の有能感を感じるのかもしれない。普通に料理は作業的に脳に良いってのもあると思う。全然一人暮らしできるし楽しめる気が最近はしている。メンタルの不調が不安だったけど、大きく崩れるようなことをしなければいける気がしてきている。ただ、普通の美味しい料理はつくれないし、つくるモチベがあんまない。適当にふりかけとか調味料をアレンジして、どんな味がするのかワクワクしながら実食する料理が好きだ。完成品を食べても、どこかで食べたことのあるような味がするだけだから、「これは何だ?」というような味がする方が好奇心がそそられる。だから人に料理をつくるよりも自分で食べる方が好きである。今日は鶏肉、さつまいも、ねぎにキムチを、ご飯の上にのせて食べる。変なふりかけもかける。こういうごった返した繁華街みたいなどんぶりをがっつくのが好きだ。外食はみんなが好む味ばかりが量産されていて多様性がない。美味しいけど、そこ止まりである。アート的体験がない。アートと料理は近いと個人的には思っているし、そこを繋げたいと思っている。あとは普通に生野菜をいっぱい食べる。これできない人もいるみたいだけど、僕は苦なくできるから続けている。フルーツも食べる。そうやってガッツリ食べるから、ちょっと疲れてベットに横になる。お昼ご飯を食べた後の、この気だるい感じが、ネガティブな思考を強めてくる。昨日書いたnote、その時は楽しい気持ちだったけど、後から思い返してみると誰かを不快にさせたんだろうなぁ、とかいう思考が出てくる。この神経状態から来るメッセージが、注意に値するものなのかそうじゃないのか、真なのか誤なのか、正しいのかそうじゃないのか、自分では判断できないから無駄に悩むしかなくなる。フォロワーは2人減っていたから、まぁ不快にさせたことはある程度真実味があるけど、そこから先どんなスキームでその行動を改めればいいかよくわからない。文章を書くツールを、note以外にもつくろうかなと考えることはあるんだけど、どこの文章書くところ行ってもnoteがUI的に書きやすすぎて、でせっかく書いたなら投稿するかってなってしまうし、素直で全部思ったことを書きたいし、自分の悪いところとかも隠したくない、さらけ出したいという価値観?があるから、邪な心が出てきた時はそれもそのまま出てしまうってのがある。邪な心が出ないような精神状態にするか、邪な心をどこか別のところで昇華するかの二択になる気がするんだけど、前者を今のところ求めてないってのがあるから後者になるんだろうなと思う。けど、昨日のnoteをちゃんと投稿して滑ったからこそ今日のnoteにたどり着いたってのもあるし、僕的には人をちゃんと不快にさせることによってちゃんとその問題と向き合えるっていうメリットがあるとか思ってしまっているので、そこが世間の倫理観とズレているから、自分なりに答えを出していくしかない領域なのかなとか思う。精度の高い信頼できる批判的思考AIとか欲しいかもしれない。自分で自分を批判するっていうのは、精神衛生上あまりよくないと思うし。

12時半:食器洗いと休憩
お昼寝も終わり、食器洗いタイム。水がちゃぷちゃぷしてる~あわあわしてる~音がする~この台所の穴ぼこで何が起こってるんだろう、面白いなーと思いながら食器を洗う。そんなにめんどくさいと思わない。いつもの作業なので習慣づいている。


外出したらやっぱり疲れるので、ちょっとまたベットで休憩。この辺の時間集中力切れてあんまり意識ない時が多い。自分でも何をしてるかよくわからなくなってくる。ぼーっと寝てるのか、ごろごろしてるのか、たまに引き出しを開けてオーガニックチョコフレークを食べて少しずつ覚醒させていく。


14時:note執筆
本を読むのも好きだけど、自分で文章を書くことも定期的にしたくなる。今日起こったことを可能な限り言語化してみたい、という欲求が出てきた。理想の一日を考える際の参考になりそうというのもあるし、自分の生活で感じたことも含めて日記的に書くことを長らくしていなかったからつまるところもあったんだと思う。僕が所属しているニートマガジンというコミュニティの冊子の執筆も、少しずつ取り組んでいる。本気で自分のやりたいことってなんなんだと真面目に向き合い続けていて、書いて修正してを繰り返している。批判的思考で自分の文章を見た時に、これじゃないなと思うところがずっとあっていろいろ書き直すところが多すぎてなかなか完成しないし、結局自分は何を書きたいのかということに対しての答えがなかなか出ない。答えがないなりに書く、っていうのはこの記事みたいに日記だったら良いんだけど、何らかの主張はしたいわけだし、それが自分の中にあると信じているんだけど、そこの辺が人生でやってきてなかったことだから悩んでいる。


17時:休憩
三時間書いてやっと14時までのことを書けた。三時間も集中して文章を書くなんてことはかなり珍しい。それだけ人生に熱意が出てきた証でもあるのか、最近の体調の良さから来る元気の行き場所を探しているのか、自分の中の足りないものと向き合う覚悟ができたのか…。わからないけど、流石に気分転換したいのでツイキャスを開く。るしこちゃんいないかなぁ。最近好きになった女の子の配信を探すが見当たらない。ツイキャスでは、たまに優しくて繊細な心を持った女の子を見つけることができてめちゃくちゃ嬉しい気持ちになるのだが、前好きだったごまちゃんって子もやめちゃって、るしこちゃんももう一週間はしていない。やっぱり、インターネットは繊細で優しい子には向いていない場所なのかもしれないと悲しくなる。リアルもそうかもしれない。繊細な心を持った人に対しての配慮が、社会でもネットでも、仕様上少なすぎると思う。スーパーのBGMや照明はもっと刺激の弱いものにしてほしいし、インターネットもドーパミンを分泌させるものだらけで攻撃性を増させる仕様じゃなく、人と人とが深く繋がれる仕様になっていない。でもそんな中で、その繊細さを表現してくれる人がいると心の底から嬉しい気持ちになるし、そんな子を傷つけずに、なるべく楽しくて暖かいコメントをうてるような、そんな精神状態になりたいと思って生きている。僕はずっと配信を聴くのが好きで、過去では気を紛らわしたいって理由が主だった気がするけど、その理由がなくなっても好きな理由は、やっぱり自分と似たような繊細さを持っている子と繋がりたいという気持ちがあるからなんだろうな、と思う。量子力学やってる北川さんって人が、今は「わからない」「できない」ことも、「わかる」「できる」って思った方がいける可能性があるって言ってて、僕はそういうの勝者の思考だと思ってたし、なんかいろいろ諦めてたんだけど、でもコメントうってコミュニケーションとって楽しくなることは、今までできなかったけどできるようになってきたなとか、妄想で気持ち良くなる方法もあるよなとか、そういう可能性も見えてきたので、そういう勝者の思考を信じてみるのも悪くないな、と思ってきている。


youtubeを開く。毎日開いてるし毎日おすすめ眺めるけど、ここにそこまで時間を割く価値のある動画って無いんじゃないかってことに気づいてきた。好きなVtuberの配信と、ヒカルの動画と、ナカイドさんって人のそんなに性格良い人が好まなそうなゲームレビュー動画しか見てないし、それもそこまで時間を費やしてみるべきものでもないような気はする。たまには楽しいけど、いつも閾値を超えて摂取してしまっている気がする。おすすめを漁ると、どうでもいいVとVがご飯に行った話とか、加藤純一の不倫の話とか、誤ってクリックしてしまうとなんか悲しくなるような動画ばっかりだし、ショート動画なんて押しちゃった時には1秒も経たないうちに不快になるからヤバい。時間を無限に溶かせるのに、そんなに大切なものがないっていうのは、改善の余地があるとは思う。でも、何かを下げても何かが上がるわけじゃないし、何かを上げるために何かを下げる必要もないということに昨日気が付いたので、もうちょっと別のところに解決の糸口があるんだろうなぁと思っている。それが何かは今のところわからない。このnoteかもしれないし、こういう内省を続けていたらいつの間にかわかっているのかもしれないし、あるいは大切な人との出会いかもしれない。自分と関係のない人と人との関係よりも、自分にとって重要な関係性に目を向けることが価値があることだという価値観のパラダイムを起こす必要があるかもしれない。

好きな音楽を聴く。この曲がボカロの中で一番好きだ。落合さんが「何度も見返せるコンテンツがいくつあるかが大事だ」みたいなこと言ってて、最近はそれを意識して過ごしたいと思っているし、良いなと思ったコンテンツには何度もふれて自分の価値観の礎にしていきたいと思っている。何らかの価値観を礎にした結果、その他の価値観が目に入らなくなってしまう人が多くて、いろんな情報を摂取して多角的に物事を捉える癖をつけた方が賢いんじゃないかと思っていたんだけど、主体の無き多角性は人生と呼べるのかという問題に気づいていなかった。やっぱり何らかの、自分の大切にしている価値観や道徳って大事だなと感じさせられた。ただ平和とか美とかそういう抽象的なものを軸にしても捉えきれない気がして、自分なりに詳細で具体的な、自分にとっての決まり事みたいなものもまた書いていきたいなと思っている。で、このハッピーシンセサイザという曲の話だけど、この曲は歌詞とこのイラストが良い。素直な気持ちとか、人と人との純粋な繋がりとか、そういう優しい感情体験を僕は求めているし、そうやって世界と関わりたいって思っていることを思い出させてくれるのが良い。イラストも、お互い信頼し合ってる感じがするし、右の子も無表情に見える奥はとても笑顔なんだろうなって感じが伝わってくるのが最高。こういう気持ちを持っている自分がいるってことにも感動するし、僕が僕として生まれてきて良かったって思わせてくれる曲だと思う。僕と同じ、不安や孤独を抱えた人間がつくった曲が人の心の深いところを動かしているんだなっていうのが、とってもエモい。僕の魂が喜ぶ場所に、僕をよき方向に導いてくれる場所に、いつでも戻ってきたい。

19時:まとめ
散歩して風呂と食事を済ませて、今また書いている。今日、この文章を書けてよかった。最近ずっと、自分のnoteを振り返りたいという気持ちもあったりして、もやもやしていた。バラバラな思考だらけで、自分がどこにいるのかわからなくなってしまっていた。でも今日ちょっとまとめることができたから良かった。いろんな知識を入れれば入れるほど、無意識のうちに頭が固くなってしまう自分がいたようだ。それに気づけてよかった。幸福になっても、良い人になれるわけじゃないということに気づいた。幸福になるだけじゃ人間だめなんだということに気づいた。バラバラのものを、ひとつにまとめあげる必要があるんだと知った。意味に変えていく作業をする時間をとることは、とても尊い時間であることを知った。まだまだ未熟すぎる僕だけど、これからもいろんな体験をしていきたい。文章も、記述だけするスタイルから徐々に意味や感性を意識したスタイルにしていきたいと思った。もうちょっとオシャレな文章を書けるポテンシャルはあると思ってるので、味気ない文章を脱却していきたい。

僕の感情の動きのスパンを見ていくと、感謝→支配欲→感謝→支配欲のサイクルでまわっていることに気が付く。良いことした後には、誰かを支配したりと悪いことをしたくなってしまうのである。そんな実に標準的な人間の醜さを内包している僕だけど、それを認めて悪い形で出ないようにすることはやっていきたいと思う。どっちの感情も認める。そうやって自分を許していくと、心を開くことができて、もっと知性も感性も豊かになると思っている。

最後に、僕がいつ見てもニヤニヤできる大好きな動画を貼っておく。人か機械かなんて、どうでもいいじゃないか。


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