手紙をかくよ
にゃんころさんから、それぞれがそれぞれに、ソーシャルディスタンスで、人、モノ、場所から距離を、はかるようになった。
わたし個人のことでいいますと、身体にサインが出て、思いも、したくもないことをしないこと。一点でも曇りがあることを「やろう、しようとしないこと」をしています。
より一層、内側をみては外側をみたり。闇を感じては光を感じたり。
好きなことで言えば、音楽を聴くことが増えました。とりわけロックは中学生から好き。お熱になる推しなるものも、できました。推しは尊いです、やはり。
森や街での暮らしで、季節の移ろいや植物を感じること、野菜や果物とかかわることは、わたしにとって心が穏やかになって、やすらぎます。チカラをもらう。
先日の「癖になる心地よさ、きもちよさ」のきづきですけれども。
嫌い、心地よくない、気持ち悪さって、なんもせんでも、距離感がはかれるねん。心身ともに物理的にも心の距離も「近づきたくない、なるべく避けたい」という、明確で、クリアで真っ直ぐな意志が働きやすい。
けれども、「好き」ってなると。例えば恋愛。「片想いのあの人のことを考えると、夜も眠れない。もし、連絡先交換できたら、デートとか一緒に行けるかな。そうだ!そういえば、あの方、お菓子作りが趣味って言ってたから、おすすめのカフェ教えてあげたいなぁ…」などなど。いくらでも膨らむし、ワクワクするし、楽しいやん!好きなことって、飲み食い、寝なくても夜通し、延々とできちゃう。
「好き」って、メールなどを送っても相手からのレスポンスや反応は思うようになく。せやのに「ねぇ、いつなら都合ええかな?何日なら会える?」って、盲目的になって、畳み掛けて質問攻めして聴いちゃうみたいな。
恋愛でなくても、片思いのあの人を、好きなことに当てはめてみて。
「好き」故に距離感って、はかりにくくなるんやなぁって。それはまたそれで、面白いねんけど。意志が鈍るというか、純度があるつもりなだけというか。あやふやになるかもしれんなぁって。
その距離感がはかりにくいなぁ、とふときづいたとき。そこから、距離感って生まれてくるんかも。きづいて、流れる景色のようにただ見ていくことで、「好き」も「嫌い」も、バランスとっていくのやも。
ほんま、面白いですね、人間って。
つらつら、ああだこうだ長々書いちゃったりして。
つまるところ、やりたいようにやって、経験したいことを経験してますねんなぁ。
意志→行動やで、わたし。
明日は、手紙を書くよ。
今日も、ありがとう⚪