わたしのバスケ履歴書
前置きですが、私は全然バスケエリートではありません。ただバスケが好きで学生時代に頑張っていただけの平凡な人間で、現在は京都で会社員をしている36才です。
中学〜大学までの思い出を書いてみます。
【幼少期】
私は京都北部の汽車が1時間に1本しか来ないような田舎町で育ちました。小学生の頃は兄の影響もあり、自然と野球を始め6年生では2番センターが定位置の野球少年でした。
親も自分も中学で野球をするものと思っていましたが、6年生のある日、体育の授業でポートボールに出会ったことがバスケにのめり込むきっかけとなったのです。
ポートボール
ってご存知ですか?基本的にはバスケみたいな動きをするんですが、ゴールに違いがあります。バスケはボールがリングをくぐれば得点になります。ポートボールはリングの位置に台に乗った人がいて、その人にボールが渡れば得点になるやつです。(うろ覚えですみません)
体育で出会ったポートボールの感想は
「まあまあおもろいやん」
その時、ちょうどスラムダンクの最盛期で初めて漫画を読み桜木花道やら流川楓やら沢北栄治やらに衝撃を受け、それまで昼休み=サッカー、ドッジボール、鬼ごっこだったのですが、影響されてちょっとバスケをやってみました。当然シュートはなかなか決まりませんでしたが、
「お…おもろいやん」
この時、何がおもしろいのか具体的にはわかりませんが感覚的にそう感じたのを覚えています。ここから自分の中で野球ではなくバスケに興味が完全シフトしました。
【中学生】
進学した地元の公立校は男女共学で部活の種類は一通りある感じでしたが、迷うことなくバスケ部に入部。3年間の思い出をダイジェストで
・先生に頭をシバかれた(今ならアウト)
・唯一の水分補給であった「やかんの水」が1年はなかなか飲めない(先輩は優しかったけど)
・隣の女子バレー部の子を好きになって奇跡で付き合えたけど恥ずかしすぎて会話が出来ずに別れを告げられる(バスケ関係ないやん)
・3年生でようやくスタメン
・京都府の本選に出場できて月バスに注目校として学校名が小さく載る(過去の栄光)
・白ユニホームを着てオナラをしたら茶色くなってしまった(自宅だったので間一髪)
【高校生】
高校も家の近くの男女共学公立を選択。合格発表の当日に寝坊して現場へ到着したときには皆帰ってるというご愛嬌からスタートしました。高校でも迷わずバスケ部へ入部。同中の先輩もいたのでアウェー感はそんなに感じなかったように思います。ちなみに、私の身長は170cmぐらいなのでポジションはずっとガードでした。
1年
・顧問が練習に来ない(初期の安西先生スタイル)
・練習メニューは自分たちで決める
・1年は外を走ることがほとんど
・試合は外野から手作りの巨大メガホンで声出し
・3年生は京都府ベスト16で有終の美を飾る
2年
・少しずつ試合に出れるようになる
・外を走る日々(毎日3〜5キロ)
・顧問が練習に来ない
・バスケ部は部室が与えられず共有スペースにバッシュを置いていたが体育教師に没収され、キャプテンが変換要求をしたら怒鳴られる
・たしかこの年もベスト16で終了
3年
・身長170cm、ポジション:ガード(スラダンでいう宮城リョータとミッチーを合わせた感じ)
・顧問が練習に来ない
・スタメン定着
・試合中のタイムアウトで顧問が「どうする?」と選手に聞いてくる
・最後のインターハイ予選前に右足を骨折
→どうしても諦めきれないので痛み止めを飲んで強行出場(絶対に真似しないでください)
・府の本選には出れたが1回戦敗退
・大会後、足がやばい状態になり手術でボルト装着
大学受験は一般入試を経て大阪の私立大学へ進学しました。自分の実力に全く自信が無かったのですが、一度は強いところでしっかりバスケを学びたいと思い、進学先は当時関西1部リーグにいた強豪校を選びました。(関西は当時1〜5部リーグまでありました)
【大学生】
1年
京都の田舎町から大阪の大都会へ無事引越し完了。入学後まず驚いたことは、進学先の大学は体育会バスケ部員の一般募集をしていないことです。学内の掲示板等を探しても募集の情報が無く、どうするか考えましたが知り合いもいない状態での答えは一つ。
意を決して練習中の体育館へ!
かなり緊張しながら入り口に到着。
いや、待て待て。
練習中に行っても迷惑だし誰も相手にしてくれへんだろうな…
そのまま練習が終わるまで待機。構造上、体育館の中は見えないのでバッシュのキュッキュする音が静かになった頃を見計らって突撃!
恐る恐る入っていくとコートの手前で100%バスケ部であろう人と遭遇し、勇気を振り絞って
私「バスケ部に入りたいんですけど、どうしたらいいですか?」
先輩「ちょっと待ってや聞いてみるわ」
…………
先輩「やる気があるなら2週間後に体育館に来て」
よし!
後で知ったことですが、体育会バスケ部は推薦(スカウト)もしくはコーチや部員の紹介(ある程度の実績がある者)でないと基本受付けていなかったそうです。
2週間後…
体育館に行くと私の他にも初めてらしき同期が数名いました。その中で飛び込みでの入部は私だけだったと記憶しています。
体育館に入ったはいいものの、どうしていいかわからないので近くにいたその場に馴染んでいる人に敬語で話しかけると
相手「おれも1年やし敬語やめてや」
え?そうなの?
そうなんです。推薦組は早い時期から参加していたので先輩方とも普通に話せて馴染んでいました。
推薦組は近畿大会準優勝したり国体選手だったり身長2メートルぐらいあったりする猛者ばかりで、特に近畿大会常連校にいた同期は田舎育ちの私でも名前を知っているほどの選手で、私は少しビビリながらもワクワクしながらバスケ部生活をスタートしました。
(1年生:推薦組7人、その他8人、合計15人)
ちなみに、当時の私の身長は173cmなのでバスケ選手としては小柄であり、大学でもポジションはガードでした。
現実は甘くない
同期の推薦組は早くも試合に出ており全ての練習メニューに参加していましたが、当然ながら私は基礎練習メニューがおわったあとはタイマー係や審判係などの雑用を繰り返す日々でした。
時には「タイマーをカウントする声が小さい」との理由だけで外周のランニングを命令されるなど、昭和のスポ魂ドラマのワンシーンを演じることもありましたw
試合に行っても道具を運んで声を出して(応援)道具を運んで帰宅。
それでも有名選手(近畿圏では)のプレーを間近で見れることが楽しく、いつかは試合に出て活躍することを夢見ながら田舎者の1年が終了。
この年に関西1部リーグで下位となり、2部リーグ上位チームとの入替戦で敗退し2部リーグ降格となりました。
2年
部活にも馴れ後輩も出来、私は相変わらずベンチメンバーにも入ることができなかった2年生。
この頃には同期の推薦組、その他組の何人かが退部したり新たに同期が入部したり人の入れ替わりもありました(辞めたほうが多い)。推薦組が辞めていく時には「サイズも能力もあるのにもったいないなぁ〜」と思いながら見ていたのを覚えています。
さすがに試合にも全く出してもらえずコーチは私の名前をかろうじて覚えているぐらいの環境が続くと心が折れそうになり、バスケ部を辞めて今以上にバイトして旅行行ったりサークル生活を楽しんだほうが良いのではないかと思い退部を考えたこともあります。
2年生が終わる頃には同期も半数ぐらいまで減っていましたし、バスケ部を辞めて将来を見据えながら多方面に目を向ける選択肢も大いにアリですが、当時の私はとにかく引退まで頑張って試合に出たい思いのほうが強かったので残ることに決めました。
さて、バスケ部は1月〜2月ぐらいまで長期のオフ期間があり、その過ごし方は自由です。
今思えばその期間こそ自主トレをして周りとの差を縮めるチャンスなのですが、アホな私は週6の練習から開放された気になってしまい、バイトしてボーリングに行けば10Gぐらい遊んで飲みに行ってなどなど…自主トレのかけらもしなかったんです。
オフ中の変化といえば、67kgぐらいだった体重が76kgにパンプアップしたぐらいです。かなり太りました。
オフ明けの練習は正に地獄と言っても過言ではないぐらい過酷だったことは言うまでもありません。
ちなみに、チーム成績は2部リーグ2位だったので1部リーグ下位チームとの入替戦までいきましたが敗退し2部リーグ残留となりました。(2部リーグは全16チームあり、1位は無条件で昇格、2位は入替戦に進めるシステムでした)
3年
練習は頑張るのですが、結論から言うとこの年もベンチ入りすら叶わず。
この頃になると悔しさというよりベンチ外にいることが馴れてしまっていました。
チームはまたも2部リーグ2位で入替戦に進み敗退、1部リーグ昇格は翌年へ持ち越しとなりました。
4年
同期も次々と部を去っていき、4年生は私を含め5人でラストイヤーをスタート。
これまでは1コ上に強烈な先輩がいまして、私と同じガードで関西圏ではそこそこ有名な人で、関東方面の強豪大学との試合でも普通にバチバチやり合えるぐらいの実力者であり、私の入学当時からスタメンに君臨し続けていました。(当時は圧倒的に関西よりも関東のほうがレベルが高かった)
後輩にも国体や全国大会経験者はいましたが、その先輩が引退された今年こそがチャンス!そう、ラストチャンスです。
私は4年生スタート時点ではガードとして確か3番目でした。(①後輩(2年生)、②同期、③私)
ある日の練習試合、なぜかいつもより調子が良く試合運びも上手くできたことがあり(自己満足)、その練習試合をきっかけに2番手となりちょくちょく試合に出られるようになりました。
関西の大学の主なイベントは3つあります。
全関西選手権(5月)
西日本大会(6月)
リーグ戦(秋頃)
■関西選手権■
まず初めにある関西選手権は名前の通り関西圏の大学約60校がトーナメント方式で戦う形式です。
この大会は基本的に2番手ガードとして試合に出ることができ、チームも順調にベスト16まで勝ち進みました。
当然ですが勝ち進む度に相手もだんだん強くなり、ベスト8をかけた次の対戦相手は1部リーグでも上位にくる(インカレ出る)であろう強豪チームでした。
簡単に比較すると、
私のチームスタメン平均約180cm、最高身長190cm
相手チームスタメン平均約185cm、最高身長195cm
身長だけでなくそれぞれの選手はスキルも高い実力者揃いでした。
どうする?
私のチームは皆が「今年は弱い」ことを自覚しており、期初から徹底的にアシスタントコーチにイジメてもらいフットワークやディフェンスなど基礎練習に明け暮れていました。
そんな私達に出来ることは唯一。ひたすら足を動かしてディフェンスでプレッシャーをかけ突破口を見出すこと。
私はベンチで試合開始を見守りました。
皆気合十分ではあったのですが、出だしでいきなり2対12、10点差で出鼻を挫かれる展開。ディフェンスは頑張っているけど流れが良くない。
すると1Q5分あたりでコーチから「〇〇(私)!」
おぉ、ここでか…リズムを変えたいんやな
あかん緊張する…
自陣のエンドラインからスローインだったので、オフェンスの組み立てを考えながらスローインボールを受け取りフロントコートを振り向くとマッチアップのガードが目の前にいるではありませんか。
前からプレッシャーかけるのやめて~!
と心の中で叫びながらドリブル開始。
相手のガードは年下で関西ではそこそこの有名選手だったのですが、名前にビビってたらカモられるのは目に見えていたので「余裕ですよ」感を演出するためにわざとバックビハインドでかわしてみたり常に無表情でプレーしていたら相手も少し警戒したのか安易に圧力をかけてくることはありませんでした。(たぶん舐められていただけ)
私が何かしたわけではありませんが、1Q5分以降はディフェンスプレッシャーと速攻を活かし10点差で食らいついたまま前半終了。
後半は後輩にバトンタッチしてベンチで応援。
3Qもリズムに乗り点差を1桁に縮め、迎えた4Q。
後輩の必殺「残像拳マンマーク」がさく裂し相手を封じ込め、残り数分で逆転することに成功したのです。(残像拳ディフェンスとは、後輩の脚力を最大限に活かし相手がどう切り返しても前に進ませないというただのナイスDのこと。スラムダンクで言うと花道のフンフンディフェンス)
逆転後そのままリードを広げ試合終了。なんと2部リーグ所属チームが1部リーグ強豪を破るジャイアントキリングとなりました。(横文字言いたいだけだろ)
ちなみに、2部リーグ所属チームの関西ベスト8は当時史上初とのことで、後日ローカル新聞に記事が掲載されていました。
次は関西ベスト4をかけた一戦ですが、この試合から会場も変わります。通常観客席があるような体育館ではコート2~3面で試合が行われるのですが、ここまでくるとコート1面のみで試合が行われます。そんな経験が一度も無い私は大して観客がいないのにかなりテンションが上がりました。
この試合も2番手ガードとしてディフェンスやアシスト等で頑張りました。延長戦にもつれ込む大接戦となりましたが、最後は力尽き敗退。
その後5~8位の順位決定戦が行われ8位で大会終了。
■西日本大会
この大会は愛知や岐阜あたりから九州までの大学が競うもので、参加チーム数は多すぎて覚えていません。
2回戦まで順調に勝ち進みましたが、3回戦で愛知県の強豪に敗退。
私はこの大会、大学生活4年目でようやく初スタメンに抜擢されました。こういう時に続けてて良かったな~ってしみじみ思いますよね。
秋のリーグ戦までに夏の合宿などがあり、その間に後輩達は急激な成長を遂げてくれましてリーグ戦が行われる時には3番手ガードとなり、出場機会はほとんど無くなりましたが、それでも腐ることなくベンチから声を出し続けて試合に参加しました。
最後のリーグ戦はまたも2部リーグ2位で、1部リーグ下位との入替戦に臨みましたがまたも敗退し2部残留で引退となりました。
その後チームは強くなり、数年前には1部リーグに名を連ねていました。
卒業後は33才頃まで社会人チームでプレーし今は健康維持を目的としてたまにバスケで遊んでいる感じです。
【まとめ】
大学生活のほとんどをバスケに費やして良かったことは、逆境でも継続して頑張ることが出来るメンタルが鍛えられたことと、やり切ったという自信(自己満足)が付いたことです。個人的には、大学の体育会でやる「目的」をしっかりと持ってやらないと終わった後に後悔することもあるかと思うので、これから大学でやろうか迷っている人は将来のこともしっかりと考えた上で決めらることをおススメします。
余談のさらに余談ですが、近代バスケはゼロステップなどのルール改正やNBA選手の新しいステップなど(ハーデンは絶対トラベリング)、年々おもしろさが加速しているように思いますし、これからも観戦はしていきたいなと。
どのスポーツもそうかと思いますが、バスケは奥が深くておもしろいです。
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