日晷 0811
朝
コガネムシがひっくり返っていたので助ける。
ほとんど瀕死状態であるようで、弱々しい。
おそらく寿命は今日だろう。
それでもなお手足をゆっくりと動かし続ける姿に痛々しさを感じる。
身体を動かす原動力、それが自らの意思によるものではないことは明白だ。
生命である、という以上の理由はそこにはない。
夜
仲良くなった地元のおばさんと喫煙所で小一時間話をする。
弥勒菩薩、下生信仰のことを聞く。
1200年前と現在では明らかに時間の流れが違っている、56億7千万年後とはもしかしたら今なのでないか…と。
なんとも突飛な話に聞こえるが、この土地にいるとすんなりと理解できるものがある。
山の「上と下」では時間や空気の"流れ"が違う。
これは極めて感覚的な領域の話である。
境界は象徴的であるが、それは身体における実態となって現れる。
"ただそうである"という確実性を担保しているのは、ここでは「山」であるに違いない。
山岳信仰の奥深さに気づき、いずれチベットに行くべきではないか、ふとそう思った。
…話を聞きながら星を見上げていると、非現実的な現実に浮遊感を覚える。
自分の人生は、誰かが見ている夢の一部である、そんな気がしてならない。