「みずから」と「おのずから」
みなさんには違いがわかるだろうか
内山節「ローカリズム原論〜新しい共同体をデザインする〜」2012年 社団法人農産文化協会
によると、
自然は、昔「じねん」と読まれていたらしい
鎌倉時代から「しぜん」とも読まれるようになり、
それぞれ意味を使い分けていたと
じねん=おのずから
しぜん=とつぜんに
昔の人の考え方では全てがおのずから
起こることであり、
突然に感じるのはその人が
おのずからを理解できていない状態
であると
だから同じ漢字が使われた
また、「みずから」と「おのずから」
も同じ漢字を使う
”自ら”
今でこそ、自発性と他発性とで
異なる意味を持たせるが
昔の人にとっては大して意味が
変わらなかったそう
それは
「みずから」やるときには
「おのずから」がわかっているということ
だから
ここで赤ちゃんを例にとると
赤ちゃんは「おのずから」育つ
という前提をもとに、
母親はそれをわかった上で
「みずから」お世話をする
おのずからという前提をわからずに
子育てをする、それはとてもいけないこと
今は親の過干渉が問題になるくらいに
昔のような機能が失われてしまった人が
多いのだろう
また、これはとてもお百姓さん的な
感覚という
「お百姓さんというのは、朝起きて畑へ行くと、
何も考えなくても今日「みずから」
何をすべきかすぐわかる。
草を抜かないといけないだとか、
稲の葉の色が悪いから
肥料を施した方が良いとか、
畑を見た瞬間に「おのずから」
わかるのです」p.35
確かに子育てだって
家事だって
現場の仕事だって
なんとなくしている仕事全てが
マニュアル通りかと言ったら
感覚に頼っているところが多い
私は好きだなその考え方
だって
自分が何をすべきかを
自分がわかっている
他人に頼る必要がない
これって最上級の自立の状態といえないだろうか
全てがあらかじめ決まっていたり
寿命の終わりに裁判を受けることもない
無理に西洋的なニヒリズムを飲み込む
必要がない
>自由だ
同じ本の冒頭にユングの
集合的無意識についての記載がある
普段生活していて
ちょこっと見えるのは顕在意識
でもその下に潜在意識があって
それが集まると集合意識になるって
ここの例で書いてあったのは
自分が経験していない時代のものに
郷愁を感じるとき
たとえば囲炉裏を囲むと
なんだか懐かしい気持ちになる
確かにあるある、
DNAでは説明しきれない、
何かに刻まれた人間の記憶が
私はそういうの聞くと
確かに「和多志」だなと思う
先日アンパンマンの
リプレイサブル・フェイスシステム
という投稿をして今、
まさにアンパンマンで言うところの
新しい顔を作成中
さらに追い討ちを描けるように
先ほど動画炎上中だよ〜と
連絡をもらったばかり
ハハッ
ミッキーもびっくりハハッ
つまりは今はダウンタイム
スピ信仰の浅めな私が
意識するよりも先に指がSpotifyに
528と入力していた状況をお察しいただきたい
クリックしたアルバムの最初のタイトルは
「細胞の再生」
はい、siri是非お願いしますww
演説できてすごいですねと
言われることも増えたけど
分け与えた分だけ
自分で補充しなければならない
この投稿でも書いた通り
この経験を乗り越えた私が
新しい顔よーっ!
なんだけど
それは私一人の功績ではなくて
拡散されてるー
やバァーー
はぁーー
なんか言っちゃったよ
ハーン
マジかぁーーという
葛藤とともに
拡散してくれた方々の想いが
乗っかっている
故に重さが出てくるわけで
それは「私」じゃなくて
もはや「和多志」だということ
集合意識で繋がったわたしたち
の意識は
じねんに発生していて
それをしぜんにキャッチした私が
おのずからそうなる現象を
みずから言葉にしただけなのかもしれない
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