①抱っこ道【地球とだっこ】
ぼく抱っこ協会の会長やらせてもらってるんだけど(笑)
(※そんなもんはありません)
別に注目されてないからお茶の間みたいなものだからさ、介入しなくていいし、されなくていい。
自由だし平均をとろうとしなくていい。
周りと比較しなくていいじゃない?
国民にマスク配るみたいに、一人ひとりを人間という類でしか見てないからこうなるの。
「あなたね、生まれる前から常に抱っこは始まっています。」ってね。
まず抱っこがスバラシイ要素だと気づいてみたら、こんなことにはならない。
なんでかわかる?
すべてが抱っこなんだよ。
メリットに限らず、まず気持ちがいい。
心地がいい。
清々しい。
お金がかからない。
代用がない。
心・心・心・心・心・心…
=理念、大切にしてるところね。
「いるんだね、ここに」= 安全確認。
建物の安全とかではなく、生命の確認。
抱っこはぬくもり。
これがなくてもいいのなら、テレワークみたいな世界だけでもよくなる。
見えない世界。
わかんない人にはわかんないけど、
人類共通の抱っこに関する認識なんてないけど、
トトロの腹抱っこみたいな状態かな?
時間は見えてないけど認められてるじゃない。
抱っこは認められてない。
心!心!心!!!
時間に当てはめられない。
抱っこは時間というものにあてはめることはできない。
=盲点部分なの。
もしも『抱っこはハタチになるまで』とか認められたとしても、ただの健康活動みたいになっちゃう。
ふたつの選択肢があったとして、
シュミレーションができるとして、
Aの道が抱っこアリの人生。
Bの道が抱っこナシの人生。
どっちかしかできないなら、
どっちかしか体験できない。
Aの抱っこ道には後悔が一切ないの。
それは責任がないから。
責任とは?
地球の人間がつくった概念が普及してないから、
いい意味での責任が伴わない。
「明日にしよう」ができない、
昨日もできなかった、”今”の抱っこ。
今しかできない抱っこを大切にしよう♡
これが抱っこ道。
周りは伴わないから“今”しかない。
キュピ!っとするのが心なわけ。
(”心”というものをコトバにすると丸太郎にとっては”キュピ!”なのだそうです)
”動”は抱っこ。
抱っこというものに固定観念がある。
ベッドの上で密着するのだけが抱っこじゃないよ。
例えば、葉という服も認めてあげる。
裸でも空気という服も認めてあげる。
別にわかりあう必要はないけど、
我の抱っこ。我の抱っこね。
抱っこは不滅。
言葉で表せるものではないの。
感覚のモンダイ。
魚さばくのみたいなもので、感覚。
説明書読むとか、ノコギリ上手だからってよりもやった方が早い。
動く。
やっちゃった方が早い。
抱っこやってみて。
これ、やる・やられるではないよ。
する・されるでもないよ。
身を引いたら抱っこから逃げきってない。
こどもの宇宙抱っこ。
地球と抱っこしてるじゃん?
すがってる。
水だって抱っこしてるんだよ〜。
人間として生まれてきてるなら、
同類と抱っこする。
自然とぬくもりを感じながら、抱っこする。
考えるんじゃなくて、抱っこし続ければいい。
キュピ!っとした、地球に抱っこ。
人間は抱っこまでも言葉で特定しようとするクセがある。
ムズカシクなっちゃうけど、
抱っこは ”心”!!
言葉で表すものではない。
人間はコミュニケーションを発達させながら、
より近道を選んだから行動というものを制限した上で特定するコトバをつくっちゃったのね。
本当はね、”心”!!
”今”しかないんだよ。
英語(の勉強)とかで「トムは昨日電話をかけた時にテニスをしていました。」
って、ホントどーでもいいよ。
で「どうしたらいい?」っていうのは、抱っこしたらいいよ。
人間は抱っこを隠すための雄叫びをする。
雄叫びは抱っこ。
うれしくなくてもうれしいと言えちゃう人間の声は、それは抱っこじゃない。
他の人の中で鳥の声はどうだか知らないけど、
鳥の声は抱っこの声。
「”今”しかない!!」の現れなの。
新型コロナ騒ぎにより、落ち着かないまま気づけば2020年5月。“アベノマスク”が我が家にも投函されたころの会話?です。
”抱っこ道(だっこどう)” というのは息子の丸太郎が考案した柔術のような動きで相手を抱っこに持ち込む技なのですが(笑)、”自らの身を守り敵を倒すための技術” ではないそうで、勝ち負けでもありません。完全に丸太郎オリジナルのものです😄
本人は空手と剣道を習っているせいか動きは理にかなっており、本人はこれの開発?には小学生の頃から日々熱心に取り組んでいたのですが、一言でまとめると“本気の遊び”です。
日常にコロナ騒ぎが重なり、今じゃ懐かしい“ソーシャルディスタンス”の叫ばれる中、我が家では抱っこ道がますます盛んになり体幹と体感が鍛えられておりました(大汗)