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川の字

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© 2007 Micha L. Rieser.
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 去年の秋ごろ、中部地方のとある民宿に一人で泊まった時のことです。一切計画性の無い旅だったので、その宿は現地に行ってから予約しました。別に、ごく普通の寂れた民宿だったと思いますよ。その日は平日だったから、客足は少なかったですけど。

 宿には二十一時頃に到着しました。ご年配の女将さんが玄関で出迎えてくれて、一人で過ごすにしては少し広い大部屋に案内されました。きちんと八畳の座敷と広縁があって、広縁にはマッサージチェアなんかもありました。あまり手入れされてなさそうだったから、使いはしませんでしたが。

 とりあえず、大浴場が閉まる前に風呂に入ろうと思って、部屋に着いてからすぐにその部屋を出ました。
 風呂に入って部屋に戻ると、既に布団が一枚、座敷の中央に敷いてあったので、布団に寝っ転がって、テレビを見たりスマホを弄ったりしてくつろぎました。しばらくすると眠気が回ってきたので、照明とテレビを消して、その日は比較的早めに寝ました。

 だから、深夜に目が覚めたんだと思います。はっきりした時間は分からないですが、外はまだ真っ暗でした。真っ暗だったんですけど、なんだか眩しい気がして、目を開けたんです。

 まず、足を向けている側の壁が目に入りました。壁は、暗がりの中で、青白い光を反射させていました。光は弱くもやがかかっているようで、よく見ると細かく震えているようにも見えます。
 
 なんだろう、と思って、少し身体を起こして視線を背後の光源に向けると、備え付けのテレビが点けっぱなしになっているのが確認できました。

 どうしてテレビが点いているのだろう。寝る前に消したはずなのに。
 そのテレビを見て、当時の私は、おそらくそういった疑問も持ったのだと思います。
 ですが、そういったことを考える間もなく、私はそのテレビの画面の異様さに思わず目を見張りました。

 その画面には、私が宿泊している部屋と全く同じ内装の無人の部屋が写っていました。向こう側の部屋も、こちらと同じようにテレビの白い光だけが闇を照らしていて、視点もテレビと同じ位置にあるから、ちょうど鏡写しのようになっています。向こう側にも光源があるおかげで、部屋の内装を辛うじて視認できるから、畳の敷き方や、布団を敷くために隅に寄せられた座卓の位置までもが、この部屋のものと一致していることがわかりました。

 向こう側とこちら側で異なるのは、私の存在と、敷かれた布団の枚数でした。
 こちら側では、私が寝ている分の一枚の布団しかありません。
 しかし、向こう側では、ちょうど三人家族が寝るみたいに、川の字で布団が敷かれていました。私が寝ている布団と同じ位置に一枚。そして、その両側に一枚ずつ。

 それを見た時、私は心底気持ちが悪いなあと思いました。一刻も早くテレビの電源を消したかった私は、枕元にあったチャンネルを手に取って、テレビに向けます。二、三回電源を押したのですが、壊れているのか反応しませんでした。仕方がないから、テレビの液晶の側面にある電源スイッチを押すために、布団から出ます。

 すると、テレビ画面に近づいた時に初めて気がついたんですが、画面の下側で、何かが僅かに蠢いているのが見えたんです。最初はただのノイズだと思ったんですが、近づいていくにつれて、それが一定の周期で、伸びたり縮んだりしていることが分かるようになります。やがてそれは、テレビ画面全体に輪郭を現し始めて、私はそれと目が合ったとき、ああずっと見られていたんだなと思いました。

 それはおそらく、テレビ画面全体に薄く引き伸ばされた成人男性の顔でした。ただでさえ薄暗くて見えにくい部屋を映した画面の上に、さらに半透明になって映し出されているから、はっきりとした人相はわかりません。目は細く、薄らと媚び諂ったような笑みを浮かべながら、何かを繰り返し呟いているように見えます。

 既に電源ボタンは、手を伸ばせば届く位置にありました。しかし私は、本当に、何故かは分からないんですけど、男性が何を呟いているのか確かめたくなったのです。不愉快だったことは間違いないんですけど、気になって気になって仕方なくて。

 テレビは相変わらずノイズのような環境音を吐き出し続けています。でもそこに、ほんの僅かに、波長の異なる、それこそ男性の低い声のような音が、混じっているような気がしました。

 私はテレビ上部の電源ボタンに手を伸ばしながら、姿勢を低くして、一歩、前へ出ます。男性の顔面は鮮明になっていきます。輪郭、顔立ち、髪型だけではありません。肌の陰影や、そのうすい唇さえも、僅かにですが、見えるようになってきました。

 その時、わかるようになったんです。両唇音っていうんですか?「ま」とか「わ」みたいな、上下の唇をくっつけて発音する音。

 男が繰り返していたのは、まさにそれだったんです。よく見ると、上下の唇を二回接触させて、一拍待つ。上下の唇を二回接触させて、一拍待つ。
 これを、繰り返しています。

 まま、まま、まま、まま。

 あるいは、

 ぱぱ、ぱぱ、ぱぱ、ぱぱ。

 かもしれません。

 まま、ぱぱ、まま、ぱぱ、まま、ぱぱ、まま。

 そこで、私はテレビの電源を消しました。これ以上見たらいけない、って思ったんです。思ったんですけど、もう遅かったみたいです。

 振り返ると、暗がりの畳に布団が三枚、川の字になって敷かれていました。

 その瞬間、私はばたばたと部屋の照明スイッチに駆けて、照明を点けました。照明をつけても、布団は三枚になったままでした。私は急いで三枚になった布団を全て畳んで、押し入れにしまいました。向こう側と同じにならないように、座卓の位置も中央に戻して、その横に座布団を並べて敷き布団の代わりにしました。あまりにも身体が冷えていたから、掛け布団は引き続き使うことにしましたが。

 再び床に就く前に、もう一度だけテレビを点けてみましたが、何事もなかったかのように、深夜番組が映し出されました。今し方私が見たものは、何だったのでしょうか。あれを微睡みながら見た夢だと片付けるには、意識が
はっきりしすぎていました。
 結局、深く考えてはいけないと思って、布団を被ってその日は寝てしまいました。すっかり目が冴えてしまっていたから、本当に長い夜でしたよ。

 翌朝目覚めたら、どうやら夢だったってことも無かったみたいで、私の身体は座布団の上にありました。相当な寝汗をかいていたようで、座布団も着ていた浴衣もぐっしょりで。
 その日は朝風呂に行って朝食を食べた後、早々に宿を去ることにしたんですが。

 チェックアウトをする時に、受付の人に訊いたんですよ。
 夜中、テレビがひとりでに点いて、テレビ番組でもない、変な映像を流していたんだが、知らないか、って。てっきり、知らないし見当もつかないと言われると思ったんですが、

 あの子、一人じゃ寝れないんですよ。

 って言われて。
 
 えっ、どういうことですか、って訊いても、いえ、失礼しました、とはぐらかされて、それ以上聞く気になれなくって、そのまま宿を発ったんですが。
 いったい、どういう意味なんでしょうかね。それから何か不幸なことが起きたみたいなことも無いから、分からないままなんですよ。 

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