倶楽部サピオセクシャル日記90 ぼくらは偏見でできている?今夜は偏る理由とリスクを語り合ってみる
先週2023年8月20日(日)のまとめを書いていこうと思います。
ただいま母親を皮膚科に連れてきていて、待合室で呼ばれるのを待ちながらスマホで書いています。
テーマは「ぼくらは偏見でできている?今夜は偏る理由とリスクを語り合ってみる」
まず最初に参加者の方から映画「スラムダンク」を僕つよぽんにオススメされた。
その理由はヤンキーがど素人からバスケットボールを始め、だんだんと強くなっていく物語は、僕の好物ど真ん中だと思う、とのこと。
なるほど、それは僕が好きなやつだな。
僕はいい歳をしてヤンキーものが好きだ。
それは青春群像劇が好きなのだろう。
そして成長物語が好きというのもあるだろう。
なので、見てみたいなと思う。
「あなたってこういう人でしょ」という言葉で他者から自分を決めつけられて傷ついた経験を語ってくれた方がいた。
それはとても悲しい経験だった、と。
そうやって相手を決めつけて相手が「違う」と主張しても自分の「決めつけ」を変えない人っている。
そういう「決めつけ人間」にはなりたくない。
人間生きていれば偏見を持つことは避けられないし、仕方がない。
しかし、偏見で人を傷つけないように気をつけることはできる。
偏見をもったとしても、それを言うか言わないかは選択できる。
そして、その言い方、表現方法もいくらでもある。
表現方法に配慮をする努力は知性の一部なのではないだろうか。
偏見は持つ人にもそれを持つに至るさまざまな事情、歴史があるから仕方がない。
彼が偏見を持つに至ったなにがしかのいきさつがあるのだろう。
偏見と似た言葉に差別がある。
マイノリティになると差別にさらされる可能性は高まる。
一方で、マジョリティは差別されにくい立場だ。
ということは、差別されないためには多数派に所属していればいいのか。
ことはそんなに単純ではない。
多数派にいるために、自分の思いに嘘をついてしまっていいのだろうか。
それは、最初はいいかもしれないが、長年そんなことをしたら、どこかの時点で精神的な不調を来たすのではないかと僕は心配になる。
安定して心穏やかに暮らすには、自分に正直に生きるのが肝要生ではないだろうか。
今回知った言葉に「バーベンハイマー」がある。
これは、映画『バービー』と『オッペンハイマー』をくっつけた造語だ。
どちらの映画のことも知らなかったので、話を聞いていた時にはさっぱり分からなかった。
だから、実はこれを書いている今もよく分かっていない。
これから調べてみるところである。
知らないことをゼロから知るのは楽しみでワクワクする。
有り難いことである。
さて、なんて書いてあったか…。
おっと、その前に。
いま、僕の好きな小説家、奥田英朗の最新小説「コメンテーター」を読んでいる。
そのなかで主人公の伊良部ドクターは人間に対する先入観が一切ない。
見た目で判断しない。
物事全般に境界線を引かない。
早い話、赤ん坊と一緒、と。
その姿に自分もそうでありたいと思った。
先入観を偏見と言い換えてもいいのかもしれない。
と、無理矢理に今回のテーマに絡めてみた。
さて、「バーベンハイマー」について調べた。
『オッペンハイマー』は、原爆の父として知られる科学者オッペンハイマーが原爆製造を率い、核兵器を世に送り出したことへの良心の呵責に苛まれ続けた生涯を描いた映画。
一方、『バービー』は人形界が浸ってきた過去の価値観に疑問を持ち変革に乗り出す、という覚醒と女性エンパワメントの映画。
これら2つの映画が7月21日に米国で同日公開された。
米国X(Twitter)上で、映画ファンたちが映画『バービー』と『オッペンハイマー』を掛け合わせて「#Barbenheimer」(バーベンハイマー)とのハッシュタグを作り、2作の映画ビジュアルをコラージュするファンアートが続々と拡散されたのだ。
写真のコラージュがツイッター上で行われた。
その投稿の中にキノコ雲を背景にポーズをとるバービーなど、コラージュしたものが多数投稿され、それはいかがなものか、と違和感や不快感を訴える声が日米双方からあがった。欠陥、米国ワーナー本社が不適切投稿を謝罪する事態に発展した。
そんなことが起きていたとは知らなかった。
僕はニュースをあまり追いかけていないかもしれない。
そう思った。