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倶楽部サピオセクシャル日記80:「私はクセ強?」今夜は内なる少数派との向き合い方を語り合ってみる

こんにちは、つよぽんです。
こないだ6月10日の倶楽部サピオセクシャルの報告です。

最近仕事のことで悩んでいて、あまり元気がないけど、どうにか低空飛行しています。
燃料切れにならないようにだけ気をつけています。

さて、今回のテーマは

「私はクセ強?」今夜は内なる少数派との向き合い方を語り合ってみる。

でした。

以下、今回話されたことをいくつか書いてみたい。

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自分の怒りと向き合う時のクセについて話してくれる方がいた。

その方は、「怒り」を出すのが苦手、と言う。
それを聞いた相方よしひこさんは、「しかし、一方で憤りは得意なのではないですか?」と質問した。

両者の違いは何か?

感情の表現をしているかどうか、が判断の分かれ目。

「怒り」は、他者から見ても腹を立てていると分かる状態。

一方の「憤り」は、内なる感情であって、他者からの視線は関わりがない時に使うことが多い。

なるほど、憤りは、心のなかで腹を立てているので周りからは怒っていることが分からない。

すると、その方は怒りという感情の表現をするのが苦手、ということか。

なんだか、ややこしくて僕自身、どこまで分かっているのか、甚だ心許ないが、こうして文章に書くことで話を聞いただけの時より少しは整理できた気がする。

なるほど、怒りにまつわることにもいろいろあるのだなと、横で聞いていた僕の認識が深まった。

また、怒りを持つのははしたないこと、醜いことと思っていたようだ。

その方は今後、怒りを表出することを少しずつでいいから練習していきたい、とも話していた。

僕は職場で、自己演出も含めてあえて怒ることがある。
ナメられると後々面倒だからと、早めに一発釘を刺しておくためにパフォーマンスを意識して怒るのだ。

実際、この行動をとることによって自分の身を守れたと思っている。

あの時、あの行動をしておいて良かった、と思う。
いい人だけだと心が壊れると思うから、時には悪い子になることも本当に大事だからオススメしたい。
優しすぎて困っている人には、ずる賢さという武器を意識的に装備することを提案したい。
この言葉、自分自身に向けても言っています。

そして、「抑圧」についての話にもなった。

自分のシャドウ(影とも言う)と向き合うこと。
この場合は精神分析医ユングの提唱するシャドウのこと。
シャドウは、心のなかに抑圧された無意識の話。

シャドウとは自分の心の中のフックのようなもの。
たとえば、リビングルームの壁にフックがなければ、何もひっかからない。

つまり、心に何かがひっかかるということは、あなたのなかにフックがあるということ。
そのフックこそがあなたのシャドウなのです。
嫌いは好きの裏返し、にも似ています。
嫌いなものって自分が本当は望んできたもの、諦めてきたもの。
それは、本当は生きたかったもう一人の自分かもしれないのです。

今回、このまとめを書くにあたって、シャドウとの向き合い方を調べてみました。

とても難しい話なのでうまくは書けないが書ける範囲で書きます。

シャドウとの向き合い方で第四なのは、投影の引き戻し。
相手にイヤだと感じることは、実は自分のなかにもあるんだ、と一度素直に認めること、受け入れること。
それだけで驚くほどラクになる。
一度認めてしまえば、それは脅威ではなくなる。
冷静に対応できるようになる。

認めたくない気持ちを素直に認めてみる、だけで楽になることも多い。

河合隼雄は、シャドウは自分の生きられなかった反面であり、半面であると言う。
そして、意識の否定した要素である。

影は私たちを苦しめようとしてくるのではなく、むしろもっと成長せよ、と無意識からメッセージを送ってきているのある。
そのメッセージに耳を傾けることで、影は光になり、僕らは人格を高めていけるのである。

かなりの乱文で申し訳ないが、以上がシャドウの説明である。

そして、次に怒りについて。

僕たちが実践すべきは、怒りを抑制することだけに心を砕くのではなく、怒りの感情を素直に受け止め、それを認識することです。

その怒りは否定せず、しっかりと受け止めて、明日へのエネルギーにするのが良い。

この怒りのエネルギーを昇華させる、ということに関しては、僕の子ども時代の体験を紹介したい。

僕は小学生(6〜7歳)の頃、二人のクラスメイトにいじめられていた。
まあ、そんなにひどいいじめではなかったけれど、当時の僕にはつらかった。
その時、殺してやりたいくらいに二人を憎んでいた。
でも、もしも殺してしまったら自分は殺人犯になってしまう。
そこで、少年つよぽんは、こう考えた。
「俺は将来絶対に幸せになって、こいつらを見返してやる!だから俺は幸せになってやる!」
そう思ってからはいろんな努力をしてきた。
その怒りが底力となった。
奴らへの怒りは、モチベーションとして十分に機能した。
大人になったいま、僕は彼らに感謝している。
怒りは有効に使えば、とても大事だ。
そんなことを思う。

この考え方は、ユダヤ系アメリカ人の健康社会学者、アーロン・アントノフスキーの健康生成論と通じるものがありそうだ。

ちょうどいま、健康社会学者の河合薫さんの書いた『THE HOPE 50歳はどこへ消えた?半径3メートルの幸福論』(プレジデント社)という本を読んでいるところだ。

今回のテーマのポイントの一つは、僕なりの解釈でかなり端折って言えば、バス会社の客からの「バスの運転手がサービスエリアで休憩中にカレーを食べていた」というクレームであった。

「お客様は神さまです」と昔の歌手が言ったことの拡大解釈が、現代の客からサービス業に従事する者への「過剰な要求」の根源のように僕には思える。
歯に衣着せずに言えば、忌まわしい、という言葉が当てはまる。

僕が文部科学大臣になったなら、義務教育で、「お客様は神さまなんかじゃない。勘違いしてはいけない」って教えたい。

これが今回、このまとめを書くにあたって一番言いたいことだった(笑)

長い文章になってしまった。
最後まで読んで頂いた方には、「申し訳ありませんでした」、そして、「ありがとうございました」と素直に言いたい。

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