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倶楽部サピオセクシャル日記105:『今の話をしてるんだよ』は正義か? 現在・過去・未来のトリセツをくねくね語り合うルーム

今週はあわただしい日々だった。取材と旅行でバタバタ。昨日からは妻がインフルエンザで倒れており、ぼくの体調もちょっと怪しい。とりあえず、書けるうちに先週のまとめを書いておく。


◆「今の話をしているんだよ」は正義か?

今回のタイトルは「『今の話をしてるんだよ』は正義か? 現在・過去・未来のトリセツをくねくね語り合うルーム」というもの。例によってぼくが作った。前回のルームで、「今」にこだわるつよぽん一派とそこに関心を示す方たちのやり取りがちょっと熱かったので、To be continue(継続案件)にしてみた。

人の存在は四次元的に認識できる。3次元的な空間・立体として、さらには過去から現在を経て未来へと続く時間軸において、外的・内的な変化を伴いつつ「在る」ものだろう。死により時間軸が断ち切られることもあるが、終焉は普段、意識の外に置かれていることが多い。

過去・現在・未来はひと続きの物語としてとらえられており、その中でどこにフォーカスするかは、人それぞれ、時々に選択しているはずだ。そんな中「今」に視点を当てる言葉はなにを意味するのだろう?
 みなさんが持つ考えを知りたくて、このタイトルを作ってみた。

ちなみに、ネタあかしをすると、タイトルの前半は『葬送のフリーレン』のセリフ、後半は1977年にリリースされた渡辺真知子のヒット曲『迷い道』にちなんでいる。推理力の高い方であれば、現在アニメ好きのおっさんが、過去を懐かしみつつ作ったもの、と看破できよう。

◆桎梏からの脱却――子供ができて変わった

もともと予想していたが、今回のテーマについてはやや極端な声が寄せられた。

「今だけを認識することで幸福になれる」
「過去に視点を向けて解析し、桎梏を乗り越えた先にこそ幸福がある」

個人的には対立するものではなく、両立しうる考えだと思うが、両者の考えはすれ違うことが多く、なかなかかみ合わなかった。同じ話をしているようで、視点も視座も違っていたためだ。

人は自身の経験(過去)に縛られる。過去がシビアなものであり、現在の人格に影を落としている場合には、人並み外れて理知的な人であっても視点・視座を動かすのは容易ではないのだな、と感じた。

そんな中、興味深かったのは「子供ができて変わった」という声だった。守るべきものができた瞬間、未来への意識が強まった、というのは美しくも自然なナラティブに思えた。

◆通じなかった「大人として振る舞ってください」

今回、個人的に盛り上がったのは、ちょっとしたバトルだった。スピーカーの方が場にそぐわない振る舞いを続けたため、最終的にはオーディエンスに落ちてもらった。

「大人として振る舞ってください」
ルームでは再三、こうお願いしている。10人以上で語り合うこともあるので、それぞれが自身のしゃべり方や費やす時間を意識してくれないと、場には不満がたまる。

オーディエンスに落ちてもらった方は、声を上げる頻度が極端に多く、話す時間も長かったため、配慮してください、と告げた。
「ルールですか?」
「いえ、お願いです」
「じゃあ、自己判断で何分しゃべってもいいんですね?」
「それが大人の振る舞いだと思うなら」

こんなやり取りをした時点で、結末は見えていた。

ぼくが今はまっている『葬送のフリーレン』で、あるキャラクターが「大人は大人のフリをしているだけ」と語る。大事なのはフリなのだ。公の場では大人のフリをしてくれないと、必ずトラブルが起きる。
というわけで、次回のテーマは「大人のフリをすること」である。

◆まとめ

途中で書いたが、今回はぼく的には答えの出ているテーマだった。「過去・現在・未来」のすべてが重要であり、どこに視点を向けるかはその時々の必然による。これ以上の答えはなかろう、と思っていたが、「守るものができて意識が変わった」という声はなるほどだった。

正しいものは美しい。


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